Along toward midnight

 住人は寝静まっているらしい、芝生の緑がさわさわと揺れている音だけが耳に触れる。
 真夜中だ。
 目覚めたのは人の気配が枕元を行き過ぎたからだった。マリアローズはゆっくり足を布団から抜いて、部屋を出た。
 暗い廊下に電気を点けていき、寒いのはわかっていたので薄くて柔らかな毛布をかかえてきたが、それを抱き締めるようにして、恐らく彼女が向かっただろう先へ足を進める。
 案の定、いた。リビングだ。
 自然とマリアローズの唇からため息がこぼれた。呆れを含んではいたが、悪い感情はなかった。
 リビングは広く窓をとっていて、月夜にも鮮やかな銀髪の女性は庭の方を眺めている。
 何も見えないだろうに。
 サフィニアは目を細めて振り返った。マリアローズがその薄い肩へ毛布をかけてやると、儚げに目の辺りを綻ばせた。

「あったかい……ですね」

「でしょ? 温めておいたからね。冷えてるだろうし、人肌くらいの温度がいいと思って」

 座布団を敷いて座るサフィニアの隣に腰を下ろしながら、マリアローズは点頭した。

「トマトの毛布じゃなくて悪いんだけどさ」

「な、なに、マリア……変な言い方して……」

「あ、顔赤いよ? 風邪引いてたりして」

「……いじわる」

 サフィニアは指で毛布を掴むと、マリアローズの膝へかけてくれた。

「寒い……でしょう」

 宵闇の下でのサフィニアはとてもきれいで、見たなら誰だって照れてしまうような、優しい仕草だった。マリアローズは少しだけ顔を俯けたが、サフィニアを見ていた。

「ありがと」

「……どういたしまして」

「月がきれいだね。それで起きてきたの?」

「ううん……偶然、目が覚めちゃって、喉が渇いてたから、それで……窓から、月が見えたから」

 ああ、とマリアローズは得心がいって、あらためてテーブルへ目を向けた。
 オレンジジュースがコップの半ばまで残っている。

「エルデンにしてはずいぶんいい眺めだよね。まあ、この家が無駄にでっかいからってのもあるんだろうけど」

「……でしょう」

「でも、ほんとに風邪引くといけないし、早めに寝た方がいいよ」

「うん……」

 けれど、サフィニアは動く気はないようだった。
 もしかしたら、とマリアローズは疑わしい仮説をたてた。サフィニアは寂しくなってしまったのかもしれない。これはもちろん、弱虫のマリアローズの主観に基づいた仮定だから、確証はいっさいない。
 今夜はちょっとしたパーティーだった。
 D3にてマリアローズが盲目に集めたアイテムが、カタリの手により高値で売れた。サフィニアの新しい魔術も効を奏した。トマトクンはカレーを作り、ユリカは習ったばかりだろう麻婆豆腐を披露し、サフィニアもご馳走を振る舞ってくれた。たくさんの料理があやなす食卓は、もとより目を輝かせていたカタリやルーシー、そしてたぶんマリアローズ以外の皆にも、気分を高揚させた。
 その後の静寂は、マリアローズにはわずかながら、辛かった。嘘みたいな気がして、ここに来たのかもしれない。
マリアローズはガラス越しの夜空を見つめていたが、

「どうか……したの?」

「いや、喉が乾いたなーって、ちょっと取りに行ってくるね」

「……あるのに?」

「へ?」

「オレンジジュース……わたしの飲みかけだから、不吉かもしれないけど……」

「……あ、そう、だね。もらおうかな?」

 不吉、とはなんだろうか。サフィニアには自分の非常な不運を気に病むくせがあり、彼女の来歴を鑑みれば尤もの原因もあるのだが、近頃はそこから離れつつあるように見えた。顔色も、数年前よりずっといいように思える。
 しかし、なにかあったのであれば、とマリアローズは手渡されたコップに口をつけつつ、サフィニアを盗み見た。
 目があった、ということは彼女もこちらへ視線をやっていたのだろう。気恥ずかしくなったが、マリアローズもサフィニアと同じように、やんわり笑った。

「……月見、という行事が、東方にはあるって……ユリカが」

「へえ、それってどうせ、飛燕に聞いたんだろうね、あの小猿、ホンット、生意気だよ」

 サフィニアは口元を緩めて頷いた。

「月影を見ながら……お酒を飲むそう、なんだけど……」

「風流だね」

「今度……皆でやってみない? お酒じゃなくて、料理で……楽しそうだと、思うんだけど……」

「いいね、それ。やりたい! そういえば今日の、ピーマンが入った炒めもの? あれ、すごくおいしかったよ」

「うん、新作……ユリカと二人で考えてみたんだけど、よかった……口にあって」

「最近、ユリカも料理に目覚めたってゆうか、上達したよね」

「楽しいみたい……一緒に作っていても、色々考えている、みたいで……面白いの」

「努力家だもんね、ユリカは。もともと器用なんだし、すごいもの作っちゃったりして」

「ありえる、かも……誰かに……喜んでほしいって、気持ちが……ユリカにはあるから……」

「そのおこぼれに僕らが預かれるなら、まあ、いいけどさ」

「誰か……というのは、一人には……限らないし……」

「……そうだよね」

「わたしも……マリアにおいしいって言ってもらえると……安心します……」

「や、サフィニアの料理はプロ級だから。見た目とかもすごいし。体重が心配になるくらい。あ、カタリの出したお菓子はまずかったけど」

「うん……手作りだったの、わたしたちが料理している間に、作っていて……カタリさんは、張り切りすぎて、しまったのかも……」

「作るのもたまにはいいけどさ、あれは二度と食べたくないね」

 サフィニアがマリアローズの肩に凭れてきた。

「眠くなっちゃった?」

「……そう、かも……」

 見下ろすと、サフィニアは瞬きした。月の滴のような、繊細な睫毛が、かすかにふるえている。
 マリアローズはまたオレンジジュースを喉に流し込み、空にしてしまったコップを静かにテーブルへ戻した。
 肩が温かかい。
 人間という生き物は意外と体温が高いものだとあらためて感じた。マリアローズが人と密着することは、あまり、ない。
 サフィニアも同じだろう。
 少し重みをかけてみても、二人とも離れなかった。たまにはいい、と、思えた。

「明日も、晴れてたらいいね」

 頬が緩んだのを柔らかな感触が伝えた。
 マリアローズはサフィニアの瞼が開くのを待ちながら、未だ明けそうになく瑠璃色に染まっている空を見ていた。

2011-05-24