ぽろり、と腕が落ちてきた。

青 い 花

その人は黒づくめの衣服を纏い、木の枝に腰掛けている。
まだ季節でないので実はないが、この木が桃の、それも頭上の男お気に入りの一本だということを、幹に寄り掛かる楊ぜんは知っている。知っていて、ここに来てみたのだった。そして、木の下で待つこと五日、ようやく再会が叶った。記憶違いなどこの自分がするとは思いたくないが、確か百年ぶりだ。

「拾わぬのか?」

まだ若い、少年のような声だった。声だけで、本質は違う。彼はこの世界に於いて神に等しい。神界にいる元仙人の者よりも、遥かに。
楊ぜんは一寸先に落とされた妙に白い腕を拾った。指から伝わるのは、重く、無機質な感触。

「これは、また、随分と昔の物を」

「古いか。まあ、そうだのう。あれから何日経つのか考えるのもめんどいくらいだからのう」

それは、未だにあの日を覚えているということだろうか。深読みではない。この男は人を謀ってばかりだが、無闇に嘘を吐いたりはしない。愚かではないからだ。彼はまだ幼く、庇護されるべきと他者に思わせる容姿をしているのに。あるいはそれも計略かもしれない、と楊ぜんは目を細めた。

「百年単位ですよ。もう、あれからどれくらいだったか、僕は忘れてしまいましたけど」

仕方のないことよ、とにやにや笑みを浮かべる男は、長い指で“彼の腕”を弄ぶ楊ぜんに向かって平然と言った。

「義手だからのう、腐ってたりということはないぞ。だが本物のように、随分と細かく作ってあって感心するぐらいだ。わしは何かを作ることが出来ないからな、余計にそう思うのだろうな」

男は黙った。沈黙の中で空を見ているのかもしれなかった。彼の瞳はいつだって遠くを見ている。なぜならそうでなくては何も見えてこないからだ。少なくとも、楊ぜんが彼を見つめる程度の視界では、彼の中の様々なことが腐っていくだろう。

「これを作ったのは、太乙さまでしたか」

「だったろうな」

久しぶりの再会を楽しむ素振りも見せない男を、楊ぜんは恨めしそうに見た。枝に足を掛けるその姿は子供のままなのに、空を取り込んだ紺碧の瞳には硬質な光が宿っている。近付けないな、と思った。妖怪とか、神とか、宇宙人だとか。そんな区別を全部纏めてどこかへ捨ててもきっと意味はない。なぜなら黒髪を風に揺らす彼はこんなにも尊い。

「元気か、奴は」

楊ぜんは再び地面へ視線を落とした。後ろめたい感じがする。

「何で名前を言わないんですか。太乙さまなら、元気です」

そうか、とどうでもよさそうに男は言った。みし、と鈍い音が頭上から届く。太公望―――伏羲と呼ぶべきか、とにかく楊ぜんが“師叔”と慕っていた彼の、がらんどうのようだと感じたこともある小さな身体がたてさせた音だ。桃の木は老いていた。来年はもう咲かぬかのう、と男は寂しそうに呟いた。それが本心からのものかどうかは判断がつかなかった。彼は楊ぜんよりも遥かに自己を偽る技術に長けていた。しかも、彼のそれは外面的なものでないぶん厄介で。太公望と名乗っていた頃の彼は技術について悲しんでいる節があった。

「昔と変わらない様子ですよ。むしろ元気すぎるくらいの。この間だって」

いつのことだったか瞬時に思い出せず、少ししてああそうだと頭の中からその記憶を見つけた。

「正確に言えば三年前の、太陽暦で表現すると十二月二十四日のことです。一部の地域ではクリスマスイヴと呼ばれる日です。これはとある神さまに関したお祝いなんですが―――知ってますよね。それで、ナタクが常のように太乙様のラボを破砕してしまいまして。今回は純粋なミスだったと申し訳なさそうにしてたんですが、珍しく、あのナタクが。まあ、でも太乙様はその夜、外で眠ることになったんだそうです。岩の上で、ですよ。寒いし、高所恐怖症なのに、太乙様、クリスマスイヴだからって一人で騒いでました。そんな感じで」

途中から何を話したかったのか視点を失い、最後の方は意地で続けていた。語尾が小さくなっていく楊ぜんが面白かったのか、男は昔のようなふざけた笑い方で笑った。にょほほ、と。

「腕のことも忘れてよく喋るのう」

「聞いてもいいんですか?」

「具体的に聞きたいことを言えっつーの。これから箱入り息子は」

「なんですかそれ。では言いますが」

「なんだ」

「なぜ、今更これを持ち出してきたのか、とか。色々と」

「腕でなければよかったのか?たとえば、おぬしが昔被っていた趣味の悪ーいナイトキャップとか、恥ずかしい日記とかか」

「疑問があるといっているんです。答えられるんですか?」

甘い匂いが漂ってきた。上を見れば、男が大きな桃を齧っている。どこに隠し持っていたのか、などと考えるのは愚かしい。彼は創造神の仲間だ。出来ないことなど幾つもないに違いなかった。人とは違う生き物である。かつて、それは楊ぜんに向けられていた言葉だったのに。その悲しみを消してくれたのは、紛れもなくこの人だったはずなのに。
男は、桃を半分ほど齧った後、まるで唄でも歌うように楽しそうな調子で答えた。

「わしにわかることであればな。構わんよ」

嘘だ。 彼に答えられないことなど何一つ存在しない。彼は神よりも、神に相応しい。そんなものである。聡くて、この星のものよりも比べられないくらい優れた種族。それが伏羲だ。彼から派生したひとも、全て優れた頭脳を持っていた。この星での疑問、その答えは彼の体内に必ずある。

「じゃあ、一つ目。どこでこれを?」

「腕か」

「だってこれは蓬莱島で無くしたはずの物です」

「見つけたのだ。土を掘り、秘密の術って奴を使ってな。腐っても鯛、というかのう。始祖だからというだけだが」

「二つ目。では、なぜ今持って来たんです」

「おぬしに見せたかったから」

「なぜ」

「かなりぞんざいになっとるな。面倒臭いか」

「答えを」

「そういえば、おぬしは昔からせっかちだった気もするな。怒りっぽくて大変だった。仕事サボりづらくてのう」

はぐらかされているのだろうか。生憎、彼ほどの頭はないから、何一つ考えが理解できない。子供のように思い切り苦味を浮かべた顔をした楊ぜんを、また男は笑った。

「本当のことなのだが、やはり信じてはくれぬか。おぬしに見せたかったのはな、これがわしだ、ということだ」

これ、というところで彼は足をぶらぶらとさせ、楊ぜんの腕の中にある義手辺りを示した。ぞんざいで投げ遣りなのはどちらだ。

「どういうことですか?これは、無機物ですよ。それに、今あなたは生きている」

「ならそれで構わん。だが、わしの中にはもういないものだ。おぬしがここに呼ぼうとした太公望という人間は」

「人間」

「そうだ。あやつは、伏羲の、人間の部分だった。呂望もセットでのう。だから、もう要らぬ」

「捨てるんですか」

「そう言っても間違いではなかろうな。わしはもう人ではない。神でもないから伏羲と呼ばれるのもちょいと違うかも知れぬ。もちろん王天君でもないぞ。あやつは自己を必要としなかった。他の誰かになりたかったんだろう」

宇宙人が笑った。人のような表情なのに、彼はそれを否定した。悲しい、と楊ぜんは目を瞑った。

「義手を捨てることで、あなたは人でなくなるというんですか」

「いや、もう人ではないが。わしにとってのけじめっつーかのう、そんなところか」

ふむ、そうかもしれぬ。再度納得したように、男が言う。演技だと思った。彼はすでに自分が何をするか知り尽くしている。己をこの星の部品や歯車として捉え、自己を捨てようとしている。ただ彷徨うだけの風となろうとしている。堪らなく嫌なのに、けれど楊ぜんは留める術を持たなかった。だって何が言えるんですか。

「僕にこれを渡したのは」

男が何かを言う前に、楊ぜんは自分から言葉を継いだ。

「人であった象徴だったからですか。僕が」

「かもしれぬ」

彼には遠い血族がいた。子にも等しい王がいた。弟子もいた。なのに、腕は楊ぜんへと下賜された。本当を言うと、不用品だったりするが。大事に扱おうと、楊ぜんは哮天犬を出し、その背中にロープで括りつけた。面白そうに見つめてくる男がいた。

「嬉しい限りです」

女好きのする笑みを浮かべても、男はただ玩具を扱うような目を下へと向けるだけだ。
さらさら、と草原の揺れる音がする。それに、遊牧民であった時代を思い出し懐かしさでも感じたのか。

「わしは均衡のとれた世界を求めた。圧倒的な不平等さなんぞいらん。だから崩した―――少しとは言い難いかもしれんが。間違っとるとお主が思おうと、関係ないのだよ」

かつての思想とその結果を口にした。

不平等。

羊を好んだ彼の感情。

幼さゆえの甘さが次第に消えていく瞳。

どれも太公望であった頃のことだ。“師叔”は伏羲の長い、長い生のほんの一部分でしかなかった。どれくらいの分の一なのか、楊ぜんには想像もつかない。それでも、伏羲の大部分は多分、太公望が占めている。一つの意識を共有する中で一番意志が強かったからか、どうなのか。紺色の目が楊ぜんに笑いかけた。

「これでさよなら、という訳でもないが。わからんだろうか、おぬしには」

わしはこの星の一部だ。 そんなことを言って、彼は跡形もなく消えた。いや、もしかしたら空間に穴を開けたのかもしれないが、楊ぜんには見えていなかった。男の目を見た後、楊ぜんは瞼を閉じていた。暗闇の中には何もない。けれど、光が見えたような気がした。
この星が彼の仲間を取り込み、狐を含んだように。彼もまた、星に還ったのだと思った。
風として、きっとあの人はどこかを彷徨うのだろう。

また会えればいい。今度は千年以上先かもしれないけれど。もっと先でも構わない。彼はさよならではないといったのだから。上司の言葉は、信じるもの、でしょう?
忘れきれない自分に苦笑して、楊ぜんは哮天犬へ飛び乗った。草原が揺れている。