「なんでこう、空気って冷たくなるんだろ。迷惑にも程があるよ」
ぶつぶつ言っていると、横を歩いているアジアンが微笑んだ。ついに空気にまで文句を言い出したのか、とか、そういう哀れみの目じゃない。こいつに不憫そうに見られてたまるもんか。そうじゃなくて、無駄に優しい笑顔だ。「大丈夫かい?」
「君に弱音を吐くわけないでしょ」
「寒いんだろう、マリア、頬が赤くなってるよ。勿論、キミの美しさがそれで損なわれることなんて無いけどネ、いやむしろ白い肌がより引き立って愛らしいと言うべきかな」
「気色悪いんだけど。というか、かな、じゃないから、聞かないでよ鬱陶しい」
「真実だからネ」
「どうしたらそうやって次々とうざったらしい言葉が出てくるんだよ―――答えなくていいからね」
「照れてるのかい?それは、キミを愛しているからさ」
そう言いつつ伸ばされたアジアンの手は、マリアローズに触れる前に叩き落とされた。当然だ。「なんでそこで触ろうとするんだって、おかしいよ?分かってるの、君」
マリアローズは近づいた気配を追い払うように頬へ手を当てた。もしかして、こいつはこの冷たさを拭おうとしたのかもしれない。想像だけれど。こいつをちょっとでなくだいぶ過信してるのかもしれないけれど。ありえない事ではないし、正しいかもしれないことだ。「相変わらずキミは純粋で恥ずかしがり屋だネ」
僕の考えていることは、どうかな、何でも正しくないのかな。「ついてこなくてもいいのにさ」
「それはできないヨ。前回の反省も含めて、一緒に行動できるときはボクはキミについていくことに決めた」
ふとこんなことを思った。こいつは僕がどこへ行こうとしているのかすら知らないんじゃないか?言ってないし、ただ鉄鎖の憩い場に行くだけなんだけど。「前回―――って、キミが留守番してたときの?」
「そう、あの時は心臓がばくばくいって仕方がなかったんだ。何せ、いつもだったらボクがずっと側にいるのに、マリアがついてくるなって」
「どこから突っ込めばいいんだろうね、それ」
「どこも間違ってないヨ?」
「うん、そうだろうけど、あくまで君にとっては。そもそもわかってたらそんなこと言わないしね。ストーカー宣言とか、まるで僕が悪いみたいな言い方とかおかしいよね?」
アジアンの長い指が左右に振られる。いちいち格好つけた動作に呆れながら、マリアローズは路地の角を曲がる。当然のようにあいつはついてきた。「ストーカー、ではなく、騎士だヨ、マリア。ああ、盾とか矛でもいいかもしれない。とにかく、キミを守っていると言う事だヨ」
「だいぶずれてるんだけど。で、前回の云々は絶対に君が悪い。何があろうと君が悪い。覚えてないし」
「忘れたのかい?」
「うん」
「マリアがボクにご飯を作ってくれた時のことだヨ。次の日大雨が降った」「煩いなあ」
マリアローズは語り始めたやつの声を遮って耳を塞ぐポーズをした。「あれは、君が碌な物を食べてなかったから僕が善意で施してやったんだよ、どこに僕が悪いって要素があるの。それに雨は偶然だし」
「そうじゃないヨ、当たり前だ。キミに非があることなんてあるはずがない。そうじゃなくて、あの時キミはボクから離れて行動して、寂しいと感じたように、ボクも不安だった。ひどく、ね。もし君に何かあったらどうしようと、そんなことはありえないと怖くて仕方なかったんだ」
大真面目にあいつは言った。「頭おかしいんじゃないの」
と、僕は誤魔化すように返し、全然足りてない言葉であることにすぐ気付いたが、言い直すわけにはいかないようすだったから、何も言わなかった。 寂しくなんてなかったよ。 駄目だ、こんなことは言えない。なんでかって?僕がちっともそう思ってなかったからじゃない。少しでもそう感じた瞬間があったかもしれなかったせいだ。遠回しでしか言えないのは、もう記憶していないことだからで、でも言われてみれば思ったかもしれないと、たとえ小指の先の爪の先ぐらいちょっと考えてしまうからだ。優柔不断な自分が、今は何となく嫌いではなかった。それは普通のことに思えた。わかんないや。「キミのことを考えるとボクはおかしくなってしまうんだ。愛ゆえのことだから構わないけどネ」
再度伸ばされた指はマリアローズの手のひらを恭しく包み込んだ。最近のこいつは前より強引になった気がする。手ぐらいならいいかな、と許してしまう僕はどう変わったのだろう。「なに」
「いや、寒そうだったからさ―――」
触った、と続くのか。冬なのだからあたりまえのことだし、だからって君が辛そうにする必要は一切ない。僕の手がどうとか、寒い寒い思ってたし、似たようなことは口にしたけれど、君には関係ないんだけど。「冷えてるネ」
それだって、言わなくていいことだ。マリアローズは、他人が口にする言葉を制限するなんてできないが。「くっつけてれば温かくなるんじゃないの」
ぼそっと呟くマリアローズの十サンチほど上にある端正な作りの顔がとびっきりの笑顔を浮かべる。無意味なほどきれいな顔はいつものことながらマリアローズだけを見ていて、少し胸が痛んだ気がした。「手を握っていても、構わないかな?」
いちいち聞くところがまたうざい。マリアローズが了解するとでも思っているんだろうか。「・・・」
黙り込んだマリアローズは、不安そうにするアジアンをたっぷり三十秒ほど見つめてから、よく観察していなければ分からないほど小さく頷いた。ぱあっと表情を明るくしたアジアンは、マリアローズをずっと瞬きもせず見ていた。心なしでもなく、明らかにスキップするような歩き方に変更されたアジアンの足元に、視線を落とす。「じゃあ、行こうか」
「今までも歩いてたし、意味わかんないよ」
「行き先はどこなんだい?」
「やっぱり、知らなかったんだ、君」
「言ってくれなかったからネ。いや、キミはボクを信用してくれたに違いないことの表れだろうからむしろ喜ばしいことかな!」
「違うけど!鉄鎖の憩い場だから」
「買い物かい?」
「そう。夕飯の分とかないし」
どんな顔をしているんだろうか。マリアローズが視線を上げると、あいつは物欲しそうな目をしていた。もしかして前のことで味を占めたのか。餌付けしちゃった?「・・・なに、食べたいの」
「え、いいのかい?」
「そんな顔して遠慮されてもね、逆におかしいよ」
「ええ、ど、どんな顔かな」
「すっごくものほしげな顔。うざい」
マリアローズはいちど目を瞑って、再び視界を広げた。もうすぐ市場につく。そう思ったとき、なぜか手のひらに目がいってしまって、ぷいと顔を背けてしまった。「マリア?」
慌てたような声で尋ねたアジアンが、マリアローズの行動を振り返るように斜め上に視線を走らせ、段々と口許の笑みを深めていった。「大丈夫だヨ」
「・・・なにが。煩いよ」
きっとこいつは僕が恥ずかしがっているとか、それが可愛いとか思っているに違いない。顔がにやけている。けれど、違う。