(The sky looks rainy.)

犬を拾った。黒い被毛に薄い青の瞳。人のかたちをしたそれはアジアンと名乗った。
黒い服を着て、大きなメロンのイラストが描かれているダンボールに半身をはみ出させて、道端にそれはいた。こちらをじっと見つめる視線に耐え切れなくて差していた傘で顔面を隠すと、それは言った。
まりあろーず。
おぼつかない呂律で、名前を呼ばれた。その瞬間、その“犬”が何だかとても可哀そうに思えて、マリアローズはそれに近づいた。雨に濡れた髪を掻き揚げて、格好つけるようにそいつは笑った。馬鹿じゃないの、と笑ってしまった。
そういえば昔にも、こういうことがあった気がする。考えて浮かんできた答えは、あの時“犬”であったのは自分であったことだった。雨が口に入っても気にせず、マリアローズは笑っていたのだっ たか。そして、拾われた。
マリアローズの口端が上がる。
それが入っているダンボールの上に傘を差してやる。雨はたちまちマリアローズに降り注いで、身体を濡らした。

「風邪を引いてしまう、キミが」

今度はすらすらと話して見せたそれは、マリアローズを心配そうに見上げた。いいんだよ、とか、そんなことを呟いて言葉を返す。

「いいんだ、僕は。今は」

別に雨に濡れたい気分というわけではなかった。雨は好きではない。いい思い出がないからだ。けれど君が濡れるよりはいいじゃないか。君はもうそれ以上身体を疲れさせる必要はないんだから。 口の周りに付いた雨粒を厚手のパーカーで拭い、ダンボールに触れる。

「寒くないの?」

「・・・よくわからない。そういうのは、ボクはあまり気にならないから」

「出てきなよ」

「でも、雨が降っているヨ」

「それがどうしたっていうんだよ。雨が嫌なら、帰ればいいんだ」

軽い調子で言ってやると、それは視線を泳がせて、一点に目を留めた。

「帰る場所がないんだ」

見ている先は、マリアローズの目だった。オレンジ色が青の中に映っている。助けて欲しいんじゃないの。そんなにも泣きそうな顔で、でも、こっちを必死で見て。ただ手を伸ばせばよかったんだ。 いつも、いつも。君は与えるばかりで。結局はそんな小さなおりの中で縮こまっている。
そんなのは嫌なんだって言ったら、僕が君を抱きしめたら、きっと君は嬉しそうに笑ってくれるんだろうけれど。

「帰ろう」

素直さを持たない僕はそっけなく告げた。

「どこにも行けないんだヨ」

「行けるよ、どこでも」

雨が口の中に入った。何だか塩辛い。気のせいかもしれないけれど、それは血の味にも似ていた。ダンボールが雨で変色して、崩れかけている。どれだけこいつはここにいたんだろう。

「ほら」

ダンボールの中に隠してあったそれの腕を探し出して強く握り、引っ張り上げた。冷たかった。

「ね、」

出れたでしょ。なら、どこにでも行けるでしょ。
言おうとした言葉は勝手に蒸発してしまって、ひくりと喉が震えた。
どうしたの、まりあろーず。名前だけは呼び方がたどたどしくて笑えるのに、なぜだかすごく悲しくて。傘を持ったそれを引き連れて、マリアローズは家に帰った。

(Eating black)

それは、餌を欲しがった。
まあ生き物だから当然かもしれない。風呂に入らせ、髪を乾かしてやり、瞳の周りに付いた水分の名残を落としてやった後のことだ。急に甘えてきて、アジアンという名らしいそれはマリアローズと共に雨の音をソファに寝そべって聞きながら、自分はずっと外にいたから今空腹の状態にあるとの旨を伝えてきた。マリアローズは少し面食らった。理由もなく、こいつは食べ物を摂取しないと思っていた。そんな気がしていた。可笑しいことだ。人のかたちをしているのだし、中身がどうであれ、こいつが少なくとも朝ごはんを食べることは知っているはずなのに。

「簡単な物しか出来ないんだけど。買い物行けなかったし、さっき、君を見つけたから」

「出かける途中だったのかい」

「そうだよ、だって家には野菜と、調味料しかないんだから―――カレーが作れるかな」

カレー、と自分で言った言葉に気分が高揚した。嫌いではないが、好きでもない料理だったはずなのだが。何かが頭の中に繋がったけれど、それが何なのか、アジアンを見たら忘れてしまった。あいつが、マリアローズの様子を見てふて腐れたように顔を俯かせたからだ。
面倒臭いやつ。
嫌ではないのが不思議だった。他人には構ってられなかった生活の中で、いつからか手の掛かる子供は苦手に思っていたのに。

「あのまま買い物に行っていればよかったネ」

「や、無理でしょ。君は、僕もだけど、水浸しだったし」

「店に入れないかな」

「そうじゃなくてさ、馬鹿じゃなければ風邪引くのわかるよね?自分のことなのにわからないの?」

すぐ傍にあるあいつの頭をぺしり、本当に軽く叩いて、ソファから立ち上がる。

「まりあ、一緒に行くヨ」

置いていかないで。そんな感じに、躊躇い空を彷徨ったアジアンの長い指はパーカーを掴んだ。

「なに。動けないんだけど。うん、すっごく邪魔」

「あ、すまない」

「・・・いいけど、別に」

「台所に行くんだろう」

わかってたのか。
口をへの字に曲げるとアジアンは子供が玩具を取り上げられたときみたいな顔になって、ようするに半泣きに見える表情をして、マリアローズの服から手を離した。いいって言ったのに。

「じゃあ、手伝って」

「料理はあまりしたことがないけど、キミのために頑張るヨ」

「なにそれ僕が原因なわけ?役に立つとは思ってないから適当にやってくれればいいよ」

歩きだすとアジアンもソファから腰を上げてついてきた。マリアローズは台所に向かった。

宣言通り、あいつは料理に関して役に立たなかった。なぜなら、カレーにどこから探し出してきたのか賞味期限も怪しい料理酒を入れ、僕が甘い物好きだからと砂糖も混ぜやがったからだ。余計な気遣いにも程がある。マリアローズは不味い食事をそれでも口に運びながら思った。SUCK。

(Dear door)

マリアローズは窓を開けた。雨は止まない。けれど、ここには入ってこれない。Asylum。あいてにとっての。だから室内は暖かい。
空が見たいといったのはあいつだが、今ではもうマリアローズだけを視界に納めている。呆れた奴だ。
ソファに座っていると肩にあいつの頬が触れた。寄り掛かられている状態なのだが、拒絶しなかった。
僕らしくないな、こんなの。
そう思いながらも。マリアローズは手をアジアンの白い手に重ねた。長い五指が、上に乗せられた手の平からはみ出している。指先の間に同じものを差し入れ、ぎゅっと握るとアジアンが目をぱちぱちと瞬きさせてから、笑みを浮かべた。痛々しくも、情けなくもない、ちゃんとした笑顔だ。可愛いと思った自分に思わず笑い、何か勘違いしたアジアンは更に目元を緩めた。

「まりあ、好きだヨ」

黙らないな、こいつ。全然。

「何でそんなたどたどしい呼び方なんだよ」

「なんでだろう」

本人も分かっていない様子だった。むしろ困惑している。その事実を厭っているようでもあった。

「マリアローズ、」

仕方ないので、ゆっくりと発音して教えると、アジアンは一音言うたびに頷いた。

「だよ。子供じゃないんだからさ、人の名前ぐらいちゃんと覚えるべきじゃない?」

偉そうな自分にどうしようもないなと苦笑しつつ、アジアンを見つめる。

「まりあ、マリア、マリアローズ」

言葉を覚え始めた赤子のように、アジアンは繰り返し一つの名前を呼んでみせた。口に馴染んできた名前を楽しむように、歌うようにそれを口にして。奇妙な温かさを含んだ声だった。
雨の音が小さくなってきている。窓から見えるのはたくさんの高いビルだ。





(bang!!)





ぽつぽつぽつ。
小雨が窓の外を濡らす。すっかり温まった身体を寄せ合って、四角く切り取られたその向こうのことを考える。マリアローズは、アジアンは、あちら側を知っている。帰りたいとも思っているはずだ。けれども、あいつの傷は緩やかにしか修復しない。まだだ。だから、繋いだ指は解けず、互いを結んでいる。
湿気の纏わり付いた身体は、自然とアジアンへ寄り添っている。今だけだから。わかっている。ずっとこうしているなんて、無理だ。
不安げに赤い髪を揺らして頭を小さく頷かせると、アジアンがこちらを覗きこんだ。薄い青の目だ。決して踏み込んではならない湖の色をした瞳。三流詩人辺りなら、あるいはそう比喩したかもしれないが。マリアローズは知っている。温かい、柔らかで限りなく優しいその色を。

「マリア、そんな顔をしないでくれ!キミが悲しいのは嫌なんだ」

耳元で騒がしい声がする。
心地良いのはなぜだろう。僕は答えを知らないふりをする。
君の声だから、なんて心の中でさえ言ってやらない。依怙地だ。仕方ない、これが僕なんだから。

「どんな顔してるの、僕は」

アジアンが首を傾げた。その頭で君は今何を考えているんだろう。適当な答えは見つかるの?あいつはいつだって僕よりも僕を理解ろうとして、大概は見つけてしまう。たぶん正しい、答えを。

「泣きそう、な?」

「そう」

当たりだ。
けれどそれはあいつにも当て嵌まるものだ。
泣いているのは、君じゃないか。言いたかった。けれどそれは口にしてはいけないことだとわかってもいた。
あいつは泣いていたのに、僕のために無理にでも笑ってみせた。
意地っ張り。マリアローズに言われたらおしまいだ。だって、人一倍に意地を張って、素直になれやしないのは、僕なんだから。

「アジアン、」

なるべく、マリアローズにできる限りの優しい声であいつの名前を呼んだ。握る手に一番の力を篭めようとした。

「わかってる、わかるヨ、マリア」

内心とは裏腹に力無い手の平が引き離され、アジアンはその背へおそるおそる腕を回した。ぎゅっと抱きしめられる。真正面からだから、アジアンにもマリアローズの顔がよく見えるだろう。
アジアンはとても優しく、笑った。

「雨は止んだみたいだ」





傘を差して外へ出た。防水加工の布地に撥ねる水音は聞こえてこない。

「マリア」

名前を呼ぶ声と共に、二人で見上げていた薄青い空から降ってくるものがあった。




ぱん!




最後の雨粒が弾けて、瞼が開く。












視界に広がるのは、見慣れた景色。マリアローズの部屋。

「・・・ゆめ」

左右を見た。隣には変態が馬鹿顔で眠っていた。どうやらまだ起きそうもない。
呆れながらも、マリアローズはその口端の涎を掬ってやった。
朝だった。



(幸せな夢を見れますように。)