甘い匂いがする。食べかけのケーキと煎れたての紅茶が香るものに違いない。それはわかっているのだが―――モリーは部屋へ入れずにいた。ドアの向こうは私室なのに、だ。壁に寄りかかりながら、耳を傾ける。聞こえてくるのは楽しげな声。娘と友人がいるのは知っているが、今入ったらきっと、ベアトリーチェは拗ねてしまうに違いない。それはそれで面白いけれど、ここは娘を尊重しよう。何せあの子にとって初めての感情が、友人には向けられている。モリーには喜ばしいことだった。それが叶うかどうかは別として。
マリアローズという人間の性質上、恋愛感情は持ち得ない、と言うのがあの子自身の主張だった。その言葉通り、あの子は誰かとそういった関係には一切なっていない。今後どうなるか分からないとはいえ。
それに、別の問題もある。目立つ色彩の髪や瞳、元々優れている容貌には男女共に惹かれる者も多いのではないか。友人をこういう風に解析するのは良くないことだが、身内には優しいというところもポイントが高そうだ。しかも、マリアローズは無邪気に笑うととんでもなく可愛いものだから―――こんなことを言ったら怒られてしまうかしら。だけど、本当のことだから仕方ないわよね。恋愛に関しては百戦錬磨のモリーでも赤面してしまうほどなのだから、もしかしなくともライバルは多いことだろう。勿論、ベアトリーチェにとっての。
いつだったか、モリーが一人で鉄鎖の憩い場へ赴いたときに視界の端に赤い髪を見つけて、呼びかけようとしたところ、気付かずにマリアローズは隣を歩く人物に話しかけていた。幾分か棘があるが、充分に親しげな声色が向けられていたのは黒髪の青年だった。あら、まあ。年寄り臭い声を上げて驚きを示しながらモリーは通り過ぎて行く彼等を見守った。基本的に男を好かないマリアローズにしてはずいぶん楽しそうな様子だったし、隣の男に到っては整った容姿に始終笑みを浮かべ、幸せで仕方がないといった感じだった。気が咎めてベアトリーチェには話していないことだけれど。
マリアローズの口許が、本当に僅かに、だが、少女みたいに甘い笑みを浮かべていたのが気のせいなのかも、解らなかったから。

「―――で、D1にまた行ったのか」

娘は武術を心得ていることもあり活劇などを好む。特にアサイラムへ遊びにくるマリアローズの話は、内容プラス話し手で、大層ベアトリーチェの気を引くものだった。

「うん。まだ儲け足りなかったし。でも結局たいしたお金にはならなかったんだけどね」

言葉に反し友人は楽しげだ。

「そうか、それは残念だったな」

ベアトリーチェの案じる声色。続くのは控えめに笑うマリアローズ。

「うーん?楽しかったしよかったかな」

上機嫌なのが壁越しにも伝わってくるようだった。お茶を飲む音も聞こえて、温かい湯気を想像したモリーは微笑を浮かべてため息をついた。

「・・・お前にしては、珍しくないか?」

娘にしたら、複雑な気持ちなのかもしれない。どうせなら実物で見たいわね。人がいたら、きっとベアトリーチェはこんなに問い詰めたりはしないだろうが。

「ベアトリーチェって僕がすっごくケチだって思ってるでしょ。や、間違ってないけど。というか今月はもう黒字決定って感じなんだよね。まあ油断はいけないとはいえ」

「そ、そんなことはないぞ!何にしろお前が無事で良かった」

「だね、前までだったら擦り傷どころじゃすまないし」

一人だったら今でも無理だけどね、と苦笑するマリアローズの声に重なるようにがたりと椅子が揺れる音。

「怪我したのか!」

「へ?や、ベアトリーチェ、そんな大袈裟な、ほら」

「・・・なら、いいが。無理するなよ?あと、面倒事に巻き込まれるな!」

「君が言うかな、それ・・・」

「同意しろ」

「う、うん、出来る限りはね。というか僕のせいじゃないよね?」

「いや、わからないが、とにかく!お前は怪我をするな!」

まるで躾のなっていない猫を諭すような言い草だが、本当に心配しているのだろう。モリーも内心で同意する。あの子は素っ気無い振りをして、変なところで無茶をするから。そんなところも好ましくはあるのだけど。

「・・・それって」

「し、心配しているわけでは、や、心配だな、これは・・・だが友人としては当然のことだからな、そういうことだ」

今度は仁王立ちでもしていそうな声色になった。

「うん、ありがと」

答えはすぐに返ってきて、耳を澄ませばごくりと息を呑む音が聞こえてきそうだった。

「本当に、素直になったな。お前は」

睨むようにマリアローズを見つめる娘が安易に想像できる。嫉妬に似た感情と不安を入り混ぜた視線。
そろそろ紅茶が飲みたくなってきた。ちょうど何ともない会話の隙間ができたようだったのでドアノブに手をかけたとき、ずず、と何かを啜るような―――紅茶に違いないのだが―――物音が聞こえて手を離してしまった。話したくて仕方ないのは分かるんだけど、お腹も空いてきたわ。

「同僚に聞いたんだが、」少し沈黙ができて、「新しくケーキ屋ができたんだ」発せられたのはベアトリーチェの声だった。どこか固い話し方は昔から変わらないものだが、今は緊張からか声も強ばっている。くす、と思わず笑いかけて、慌てて口を押さえた。
今更なのだが、なんだか盗聴しているようで―――悪気はなくとも状況はそれそのもので―――モリーは目を閉じた。声が耳をすり抜けていく。戸締りをきちんとした廊下には風が吹き込んでこないけれど、温い空気はどこからともなく流れている。ああ春ね、動物達が騒ぎ出す季節ね。いつでもオッケーなのは人間だけじゃないの全く。
お腹が鳴っている音がとても気恥ずかしくて、そんなことを考えていたモリーだった。