鏡を見ればあの子がいる。
「あ、みーちゃん」
影に灰色の猫が見えた気がして、路地を覗き込んだ。猫どころか、誰もいなかった。「あ、ユリカ」
同じようなことを言う人がいた。振り向くと、真っ赤な髪がまず目に付いて、すぐにマリアローズだとわかった。ユリカは微笑んで、会釈した。「さっき会ったばかりだけどね」
そう言って、マリアが路地の側へ寄った。鉄鎖の憩い場周辺には常にたくさんの人がいる。その中で話し続けるのは難しいと思ったからだろうが、その足取りに、ユリカは少し違う印象を受けた。「しょういえば、怪我したところは大丈夫だったかしら」
「勿論。だってユリカが直してくれたんだよ?痛むはずないって」
マリアローズは今日、アンダーグラウンドで腕に傷を負った。たいして深くもなかったし、医術式には大概の傷なら直せるという自負もあったからあまり心配してはいなかったが、何となく聞いてしまった。マリアが傷を作ったこと、それが、わたしのかつて感じた痛みを思いださせたから。ふいに、ユリカはマリアローズの腕へ手を伸ばした。自分でも訳の思いつかない行動だったけれど、マリアローズと同じように目を丸くして、瞬きをしたら、すぐに何をしているのかを理解した。「きじゅ、は」
エルデンの喧騒でもその声ははっきりと聞こえてきた。その舌足らずな声は、ユリカ自身のものだった。さっきも同じことを言ったのに、わたしは何をしているのかしら。「大丈夫だよ」
戸惑いながらも、困ったような表情を笑みで隠そうとしながらも、マリアローズは小さな手に自らの手を重ねてくれた。それから、ありがとう、と小声で言った。マリアは結構、恥ずかしがり屋だと思う。ぱっと手を離して、薄く頬を染めたマリアは、こう言ったら絶対に怒るだろうけれど、とても可愛らしかった。「今から、どこか行くの?」
ユリカが尋ねると、マリアはうん、と答えて、少し考え込んで、「鉄鎖の憩い場に。買い物だけど」と言った。まだ距離感を掴みかねているのだろうか。仲間なのだから、もっと素直に話してくれてもいいのに。そう思わないこともなかったが、マリアローズにも色々あるのだろう。だったら、ユリカはできるだけ歩み寄る。きっとそうすれば、マリアローズだってもっと頼ってくれるようになるだろう。「しょれなら、一緒に行ってもいい?」
驚き、そして顔を真っ赤にしたマリアローズが答えを出すまでに、数秒かかった。 * AZIAN 眠ることをあまり必要としない身体を壁に寄りかからせる。夜はすでに空を黒く染めていて、灯り一つない室内はアジアン自身を隠す。手を目の前にかざしても、影が動いたように見えるだけだ。少し、心地が良い。自己を確認するのは僅か以上に苦痛を伴う。「マリアローズ、キミは今何をしているのかな」
馬鹿げていると思いながらも、目を開け、夜空を見た。何を見ていても、赤い髪が、橙の瞳が、その姿形や声が、記憶しているそれらを思い描くことが出来る。キミはボクの全てだからだ。答えは明確で、ゆえに悲しくもあった。マリアローズには、届きもしない。 せめて、その寝顔が安らかであるように祈った。誰に届くはずもないことを知っているそれを、アジアンはそれでも想った。眠気は相変わらず訪れず、アジアンは一つ、思いついた。すぐにそれを実行した。朝まで、マリアローズのことを考えていよう。 * MARIAROSE あのときから何度も、僕のせいで、という自己を僅かに傷付けそして掬っていく言葉が脳内に染みていった。結局浮かんでくるマリアローズの心にはそれなりに深い傷があって、抉られたそれらが完全に癒えることはないだろう。ノーラは可愛かった。ローメオは優しかった。皆、兄妹みたいで大切だった。けれど裏切られた。きっと彼らも同じように思っている。真実としては、どちらも罪を持ってはいない、はずなのだけれど。「逃げないでよ」
そう言った子供の顔をまだ覚えている。父母よりは曖昧に、その言葉と輪郭だけははっきりと。「無理をしちゃ駄目よ」
心配性のお母さんみたいな口調でユリカが言って、傷のあった場所を軽く叩いた。怪我したばかりの腕には、けれど医術式を施されたお陰でその治療の痕すらない。見た目は絶世の美少女なのに、実際はマリアローズよりもずっと年上の女性を、マリアローズはじっと見つめた。きれいな顔には、心配そうな表情がある。アンダーグラウンドに潜るのには慣れているのだが、生傷は絶えない。先ほどまでひりひりと痛んだ場所へ手を伸ばし、今日の失敗を振り返る。前に出すぎたせいか、走るとき転びそうになって速度を下げたのがいけなかったのか。なんにしろ、原因は自分の力不足だ。「わかってるんだけどね」
青い目が見つめ返してくる。どうしたの、マリア、とか、そんな様な言葉が聞こえた気がする。いつもの自己嫌悪というよりは、泣きたくなる虚しさだ。僕の胸が冷えていく。「ん、何でもないよ・・・ありがと」
きっと人の目にはぎこちなく思える笑顔を浮かべた僕に、ユリカは何か言いたそうな表情になったが、小さく首を振り、手を差しのべてくれた。優しい。僕には勿体無いぐらい、いや、本当に充分以上の温かさを、ユリカは与えてくれる。素直に受け取れないのは、僕の性根が捻じ曲がってしまっているせいに違いない。「帰りましょ」
ZOOの仲間は、帰り道の坂を上り始めようとしている。サフィニアが不健康そうな顔色で、不安そうに僕を見ている。トマトクンはユリカの言葉へ鷹揚に頷いてみせた。戸惑いながらも小さな手の平へ自分のそれを重ねると、やはりお母さんみたいにユリカが微笑んだ。温くて、椛のように小さな手だった。