この人生において初めに欠損したのは居場所であった。まあそれはいいとして(良くは無いがとりあえず置いておく、という意味で)次に失ったのが利き腕だったのはそれなりに痛手かもしれない。
筆を持つのも、指揮をするのも軍師の職務であり、その行為には腕が必要であったからだ。痛みは問題ない。あなたがたから貰ったものを無碍にしてすみません、と両親に謝することも、最早不必要である。彼らは既に死したし、魂魄はもうどこにもない。ただ中途半端に爆ぜた腕は、嗚呼戻ってきてはくれないだろうかと少し思う。(わしは動揺している、混乱しているのだ)と太公望はごろり と、石に寝転がった。硬い上に冷たい。上空に暮らしていた頃、瞑想に使っていた岩に僅かながら似ている。薄い灰色をしているところとかも。懐かしくは感じない。そもそも瞑想のふりをして眠っ ていたふりをして考え事をしていた記憶は未だそれほど遠くではない。太公望が主導する計画に参加させられた(いや、してやった、したかった?)のは数年前である。まだ、ではないのかは、人と は違う感覚になっているから、よくわからない。例えば三sのダンベルを持って三十秒で走ることが出来るのと、野菜と茸から杏仁豆腐を作れることのどちらが優秀であるかであるか、である(とい うかそれはどこかで見た場面だし、そもそも優れているかの問題ではないだろう、どうしたのだわしの頭)。 考えなくても、腕のことで悩まなくてもいいことは、知っている。 きっと自らの上司は何かしらの助けをくれるだろう。弱い自分が皇太子を封ずるために新たな宝貝をくれたのだから(旗だが)。代わりの腕か、無くした腕を修復する術か。(後者は無理だろうがな、わしはまだ人であるつもりだ、少なくとも後付できるような機械ではない)と一人で突っ込みをいれる。自分はボケ担当だと思っているのがどうだろう、見た目はまあ少年だとはいえ中身は結構な高齢であるのだし。惚けても不思議ではない。仙人は何千年生きようが正常な(ある意味では異常でもある)脳を保てるらしいことは、お山にいたときに見知っている。黒髪の、変な研究者だとか、物凄い剣術の使い手とか、いたのうと、太公望は彼らの顔を思い浮かべる。真面目な表情のものは一人も浮かんでこなかった。むしろこの頃溜まってきた疲労のせいか輪郭が歪んでいる。しかし自分は良く働いている。こんなに腕が痛いのに。全然誇らしくないけれど。人を殺す指導に誇りを感じるのは可笑しい。褒めてもらってもお礼に叩いてやりたいぐらいだ。 (人が死ぬのが嫌だからこの戦を始めたのに、この腕と代わりにわしは幾人もの民を殺した。権力者を尊いとは思わないが、あの幼い皇太子すらわしは殺した)それは必要な犠牲であるのだと師は言った。間違えではない。太公望とて犠牲の出ない戦争などないとはよく回る頭で理解している。それでもなくした腕は痛む。罪の意識と、自分への怒りのようなものを綯い交ぜにして。桃でも食べて気を休めるべきかもしれない。脳裏には未だに先ほどまでの血と肉が残っている。地面に刺さった槍と、呼吸を忘れた兵士達。空を飛んだ白い魂は三筋。自らが消し去ったもの。それらにも家族があり、もしかしたらこの今、どこかで一人泣いている孤児が出来ているのかもしれない。六十年前の、太公望と同じように。 ごろごろ、石の上で寝返りを繰り返す。振動で断面が傷む。白い包帯が汚れていく。水の音が聞こえる。泣き声のような音に、なぜか安らかな気持ちになって太公望は紺碧の瞳を瞼にしまい込んだ。泣いてはいけないのだ。自分は軍師だ(つまりは冷静に、冷淡に振舞うことが求められている、でなければ頭は正しき判断を出さない)。 閉じた視界の黒が更に深くなって、すぐ近くに人が訪れたのだと目を開く。青い髪が目の前で揺れる。すぐ隣に腰を下ろしたのは、楊ぜんであった。「太公望師叔」
(こやつはわしの、名前を呼ぶのが好きなのか、なわけはないが、口を開くといつも最初はいつも)太公望は口を尖らせた。「あー、おぬしが来たから場所が狭くなったのう」
「何してるんです」
(天才と名高い道士サマは軍師の言うことを聞き流した、と)「瞑想だ。わしは今は普通の人だから、仙人様になるには、修行せねばならんからな。かかか」
「そうですか。てっきり眠ってるのかと」
楊ぜんが口許を緩めた。こういう顔(甘い、美しい、そこらへんだろう)が、女子にはもてるらしい。太公望には逆立ちしても出来ない表情だ。好かれるようにするには、まず整形をしなければならないが。「腕、痛みますか?」
「いや、別に」
言いながら目を瞑る。彼が腕のことを口にしたせいで、忘れていたわけではないものがまた脳の引き出しから出てきた。(頭をぐちゃぐちゃにされて倒れている兵士の中でわしは人を)風が頬を撫でている。ひやりとしていて心地がいい。(本当に眠ってしまいそうだ)むしろそうしたほうが楽になれる。起きていると何かしらを思考してしまって疲れる。はあ、とため息をついて視線を前へと向けると。「・・・なんだ」
楊ぜんの、太公望のそれと違って長く、大きな手のひらが頬を擦っていた。風ではなかったらしい。(耄碌したのかわし)指と風では大分違うというのに。質量も、その温かさも。「少し、土が付いていたので」
すみません、と全く悪びれずに楊ぜんが言った。(水で湿った岩肌に土はなかろうに)彼の言葉が嘘であることは明確であった。けれど、理由は分からないが頬にはまだ楊ぜんの指がある。「おぬしの指は冷たいのう」
感想を口にすると、楊ぜんは少し不安げな顔になった。「そうですか?」
「たぶんな。人の指など滅多に触らぬが」
「ではなぜ」
「感覚」
「・・・はあ」
「疑っておるのう、だが、本当だぞ」
今わしが頭を預けている岩の温度と同じだから、とは口にしなかった。ただいつものようにふざけた笑みを零す。岩と一緒にされるのは嫌だろう。それにしても随分と冷たい指だった。今の時期は、それでも気持ちが良い。「あなたの言葉って休んでいるときは適当に聞こえますね」
「そんなときまで真面目腐った話をするやつなどいないぞ」
「そんなもんですか」
「あ、いや、楊ぜん、おぬしの師は別かも知れぬがな」
「玉鼎真人師匠のことですか?」
「あやつは人は良いのだが、堅物だからのう」
(わしがやつの洞府から桃を盗んだら怒ったし)「師匠は立派な人ですよ!」
楊ぜんは玉鼎を親のように慕っている。それは有名なことだ。(一に顔、次に言われるのはファザコンであることであったな)仙人界の噂話など大概、暇人が尾鰭を付けるものだが、立場上彼の師匠に近づく機会は多く、弟子についての話も良く聞いた。あまり耳には入ってこなかったが。「知っておるよ、だがそうでなくてな」
「頭が固いとおっしゃってるのではないのですか」
あなたと比べたら、というのはなしですよ、師叔は柔軟すぎなんですから。楊ぜんが怒ったような口調でぶつぶつと呟く。(こやつはひどく生き生きとしていて、まるで死にそうにないな)と太公望 は少し安心した。なぜかというと、誰かが死ぬのが怖いからだ。間近な人間だと尚更に。それは当たり前の感覚で、けれど仙人や軍師としては失格なのかもしれない。前者は心を無にしなければ(馬 鹿にならなければ、か)ならなくて、後者は死を恐れていたら勤まらない職業だからだ。(わしは向いていないのかも知れぬ)太公望は元々、羊を飼って一生を終えるはずの人間だったのだ。頭領の 息子だから、多少の責任は背負うだろうが、自分には兄がいたから一番のそれではないし、人を守るためのものである。決して誰かを害するわけでもないだろう。(昔が恋しいのではないのだが)そ もそも望みは捨てた。一度道士になってしまったのだ、戻る場所などない。これからの気の遠くなるような長い命を硬い岩の上で目を瞑って過ごす。(その時、わしは一人なのだろうか)僅かながら、上昇しかけていた気分がまた落ち込む。「まだ川の水は冷たいか」
他意はなく問いかける。「春先だから温くはないでしょうね。それが何か?」
「体を冷やそうかと思ったのだ、少し」
「傷に障りますから、駄目ですよ」
「おぬしに塗らせた薬はよく効いておるぞ」
「阿呆ですかあなたは。いけませんよ」
「ケチだのう」
「・・・痛みますか」
疑問詞付きの言葉が指しているのは、腕だけではないだろう。楊ぜんの気遣いは不器用でわかりやすい。「たいしたことではないよ、腕一本ぐらい。ただ食事には多少不便かのう」
「食べさせてあげましょうか」
「そーいうつもりはないぞ、子供ではあるまいし」
言いつつ、太公望はフォークに刺さった南瓜を差し出す楊ぜんを想像する。どうぞ、あーん、口を開けて。「本当気持ち悪いのう、それ」
「まさか本気にしました?」
楊ぜんが苦笑した。 (痛くない、とは言えないが、これは腕が焼けたからというより、片腕になった原因の方に問題があるのだろうな)と、太公望は考える。仇に近しいものであることはどうでもよくて、幼くして親をなくした二人の皇太子にはそれなりの感情も持っていたのだ。憐れみかもしれないし、故郷を離れなくてはいけなくなった彼らへの、一方通行の共感だったかもしれない。「まあ、片腕だろうと慣れりゃー平気だろうがのう」
「そういうところが、師叔は適当なんですよ」
あーもう!こっちが困るんですよ、あなたが病気だったり辛そうだったりすると! 楊ぜんの言葉には感情が篭っていてそれはかなり柔らかいものであって、太公望は口許を緩めた。有り難い事なのだと解っている。先ほどの行動も、気遣いの一つに違いない。頬に付着した血痕の幻覚でも見えたのやも知れない。それで、拭取ろうとしたのかもしれない。太公望の、妙に歪んだ口許ごと。 片側しかなくなった手のひらを左腕の断面に重ねる。楊ぜんによって適度な量の包帯が巻かれたそれは膿むことなく、痛むことももう無かった。 腕をなくしたのが悲しいのではなく。人を殺したのが一番、辛いのでもなく。地に点々と倒れたたくさんの人。それはかつて故郷で見たものと少し似ていたのだ。 (わしが己のことを第一に考えるなど、なんと愚かしいことか)「楊ぜん、腕を貸してくれ」
「は?」
「いいから」
太公望は彼の左手に片側の手の平を重ね、岩に立つ。青空と木々に視界は二分された。風は凪いでいる。乾いた地面の戦場はもう見えないが、緩やかに流れて行く大気には人の匂いが混じっている。「む、昼時か」
「はい。というか、そのために僕はわざわざ岩場まで来たんですけど」
全く、と苦々しげに文句を零す楊ぜんにすまない、と呟き、太公望は握った手ごと眼前の川へ飛び込んだ。 じゃぼん、水の音。青年の手がするりと離れていく。口から出でる呼吸の跡を追う。何の匂いもしない水の中には流れていく木の葉と小枝。(平気だ)と口を強く噛む。水面の向こうには慌てながらも起こった様子の楊ぜんがいた。(大丈夫だ、わしは)片腕が水を掻く。 すぐに顔を出して見せるよ。