足跡を引き摺るようにして歩いている
トマトトマトと煩い声が止んだのは昼下がりのことで、見ればベッドであどけない寝顔を晒していた。半ズボンの足が床に付きそうなほど殊更に悪い寝相である。薄布をかけてやると鬱陶しいのか跳ね除けてしまった。
「しょうもないなあ」
誰にともなく呟いて苦笑いを浮かべ、スペインは伸びをし、椅子から腰を浮かせる。ロマーノを抱え上げると、ベッドに寝かせ、自らも横になり、頭の下に腕を敷いてやった。こうしないとまた落ちるような気がしたからなのだが、内職を放りだすのは不味かっただろうか。
ロマーノが倒れこむように眠っていたそばには籠いっぱいのトマトがあった。どれも赤く陽光に照り輝いている。今年一番だとか言っていたのを意識の端に聞いた。食べろ、食え、このやろー、そう
言ったのも。食用にトマトを改良したのは生意気な口を聞く子分の家のもので、彼自身も鋤を握っていることがあったから、思いいれも深いのか。それを与えてもらえる自分はなかなかに懐かれてい
るのだと思ってもいいのだろうか、とにかく放って置かれたロマーノは今や目を閉じている、ぽんぽんと頭を撫でてやると身動ぎし、怒ったように眉を顰め、口許が緩んだ。矛盾した表情がロマーノ
らしい。
「おい、いつまでそんなことやってんだよ、構え畜生が」
「ほんまにお前は―――もうちょっと待っててなぁ、とりあえずあとピンクの奴作らんと」
「つまんねーなー」
「我慢しろ、俺にも都合ゆうもんがあるんやからな?」
「知らねーぞ」
手伝ってくれるだろう何てことは全く思えないが、背後で怠けている物音が聞こえるだけで頬が緩む。
「トマト、やっと上手くできたんだから、食えよこのやろー」
はいはい、と纏めればロマーノは頬を膨らまして苛立ったがそれ以降はただ独り言のようにぽつぽつと「今年のは」とか「いくらで売れっかな」とか呟くのみで、スペインの邪魔をすることはなかった。おそらく理解しようとしていたのだ、今の状況を、だからこそ余計に口喧しく喋り、自然と会話数が減っていった。自らがどうなるかというとき、頼りにするのはたぶんスペインしかおらず、寂しさ悔しさを紛らわすかのようにし、薄々気付いたスペインの窮状へ干渉しまいとした。明日になったらどこにいるんだろう。そんなことを考えてうつぶせているのだとしたら、とても悪い気がする。それに、胃がきりきりする。こんなにちっちゃいがきなのになぁ。
「いつまでも側において置ける訳ではないのですよ」
怒りっぽい青年の言葉だ。
スペインは先ほどまで作業場にしていた北向きの机に目を向ける。白い紙が脇に寄せられ、中央に広がるのは花弁代わりの布と、完成した薔薇の造花。カラフルなのは偽物ならではで、鮮やかな色彩
には碧さえも浮き沈みする。積み重なるそれらは僅かな賃金と引き換えに見慣れた机から消えてゆく。感傷的になる訳ではないが、あいつも同じような道をたどるかもしれないのだ。時折、意地を張りながらも腕を掴み寄りかかってくる子供の重みがかつてより増していくのが嬉しかったこと、それも遠いことのようで。月日は確かに過ぎていっても、その感触は未だ間近で感じられるというのに、だ。
「負けた?」
間の抜けた上司の声が思い出される。あれはどこの戦場の帰りだったか、辿れば思い出せるに違いないが、生温い空気に晒されていると頭はぼんやりと、遠くに行っているような感があり鈍い記憶ばかりがおのおの浮かんでは消える。
傷だらけ包帯だらけで帰宅したスペインに差し出されたのはやはりトマトで、「ありがとなー」と犬が飼い主に似てくると云うようにその色と少年の顔とを対比し、惚けて笑ってしまったからか、しばしロマーノは畑作に熱中した。不器用な奴だ。口も悪い、これは何年暮らしても直らなかったが、子供らしく膨れっ面が似合う。淡い色の肌、弧を描く睫、可愛い顔をしている。そしてそのうちにあるオリーブグリーンの瞳が輝くときの愛らしさを知っている。とても楽しそうな顔。これは大概スペイン以外に向けられるが。スペインにとっての、ひいてはこの少年との関係性を示す記号はそのようなものだった。穏やかな表情、無防備な寝相。警戒心の強い子供がよくもまあ、と感心するくらいに純粋な姿だ。他に何があるのか、支配するものであること、上から押しつぶされるようにして育つこと。この、小さなロマーノにとってそれが幸せに直結することがあったのだろうか。あるに違いない、と、思い込みたいのは自身の幸福もそこにあるからだろう。
誤解を恐れずにいえば、スペインは小さな子供が好きだった。温かくて、太陽の匂いがする。どこか懐かしい感じがある。
手を伸ばす。柔らかい頬に触れる。思ったよりも熱いのは窓からの陽気か。つっついてみる。
「ロマーノ、起きやー、親分やでー・・・仕事、まあ、終わったでー」
構って欲しいのはこちらだったか。引っ張り上げた温もりはスペインの腕に巻き付くだけで眠り続けていた。
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それが当たり前のことだと納得したような気になるのはほんのちょっと遡る時間からに過ぎなくて、ロマーノが悩むのは正しいことか、ではなくこうすることによって自らが満足感を得られたのか、そのようなものだった。
スペインから独立すること。それは確かに、関係を切り離す、と言うことだ。
なぜなら今のロマーノが手を四方に伸ばしたとして、引取り手はどこにも見えないからだ。霧深い都市はここから北方にあるが、そのような感覚が手のひらに残る。視覚は白く濁る。ときおり何かにぶつかる。弟が心配している。うるせえ、お前には関係ないんだよ、と、口を尖らすのが昔からの癖であることぐらいは自覚がある。よく言ったものだ、「トマトみたいや」。能天気な声。それがロマーノに向けられる形容詞の多くを占めていた。ちなみに弟の場合は「かわええ」と連呼するのがあいつの礼儀であった。
依存しがちな性質は昔から己が己のためにあったことがほぼないからではないかと思うのだが―――同じような境遇でも弟は例外であるとして、邪魔者のように扱われてきたロマーノを誰より好きになってくれたのはあいつに違いないのだ。家族愛にしろ、兄弟愛にしろ、分類は曖昧で、もしかしたら結局懐くようになってしまったロマーノを“親分”としての充足感のかたまりとして頭を撫でていたのだとしても。
「スペイン」
呼んだら来る訳じゃねーのに馬鹿みたいだ。他人に見られたらそれこそ憤死する。ベネデット・ガエターノ、か。似合わないにも程があるし、第一ロマーノのそれには意義がない。せいぜい寂しかったから―――などと理由にするのも、なしだ。ああ何だか顔が熱い。晴れた春の日の日差しそっくりに熱を持つのは年に不相応な未熟さだった。
「んー?」
つまんねえ。弟はじゃが芋のところで筋肉ムキムキになるための訓練をしている。外見は似ないがサボり癖は自分とそっくりだから、今頃どこかできれいなお姉さんでも見つけているかもしれない。そしてそこで止まってあの田舎物オールバックに捕まる。軽くわめく。ここまで想像して嫌になった。そうは思えないし、誰も頷かないのだが、思考すら似ていないこともない。もし弟があるわけないがむきむきになって帰宅したら庭で犬のように野宿させてしまおうと思った。意地悪いのもロマーノの性だ。
「なんや、もう」
シエスタを終えてもまだ寝たりない気がして其の侭ベッドに仰向けとなっている。今日は何の仕事もない。そんなものはよく放棄するから珍しくはない休日。家にはロマーノだけがいて、本を読もうにもその習慣を持たないので手持ち無沙汰だ。昔なら、そう、週末にある空いた時間をスペインが割いて、観光や農業の指導、それかロマーノが知りもしなかった妙な遊びを教えてくれもした。楽しかったと口に出したことなどないが、たぶん、あれは幸せな時間だったはずなのだ。
「そんなだらだらしとって、暇なんー?」
ちゅんちゅんと朝方鳥が泣くような当たり前さで声が聞こえて、驚きに身を起こすとベッドにやつが腰掛けていた。
「あ」
シエスタのあと。
唐突にそれだけを思った。スペインは鋭利さの欠片もない顔をしてそこにいる、昔から大差ない姿。
「おー、やっと気付きよった」
伸びてきた手が目の前に翳され、わずかに光を遮断するそのぶれを見透かした向こうににんまりと笑った顔がロマーノの瞳に映る。
なんでいるんだと思案し何も思いつかず、ときどきこうして約束なしに来る存在のことをわかったような、そのはずなのに不可思議な感じが否めない。
「さっきから呼んどったんに、返事あらへんし、寝てるかとも思ったんやけど、なに、寝惚けとるんー?」
「誰がだ、意味わかんねーよちくしょう」
「えっとなー、まずお前が俺呼んで、返事したん。けどお前気付かんし、こっちから呼びかけたっても知らん振りやし」
「だからって勝手に部屋はいんじゃねー」
「へ?なんで?」
「そりゃ、よくわかんねー奴が急に部屋いたら嫌に決まってんだろ」
「わかんねー奴って何やそれー、わからんわー」
「お前だろ!」
「でもロマーノのこと俺よく知っとるしなあ」
「そういう問題じゃねーだろ・・・つーかお前どうやって入ったんだよ」
「あんなー窓、開いとったん。たぶん起きてすぐ開けたんやろー、庭の方の!」
そういえばそんな気もする。たぶん馬鹿弟の仕業だが―――花に水でもあげたのだろう、無用心だが認めるのは悔しい。
「そうかよ」
「んな投げ遣りじゃあかんやろー!ちゃんとせなまた、また、貧乏になりよるから・・・」
「落ち込むな、うっとうしい!」
「やって、造花作んのごっつしんどいんやで!眠いと本数間違えて悲しくなりよるし!」
間断なく続いていくような会話に妙に気が緩む。退屈さがまぎれたからか、そうでないとわかってはいるが。例えば、もし戸締りがきちんとしていたら、などと思う。そうしたらこう煩くはならなかっただろう、もちろん、弟が帰ってくるまでこうして口を開くこともなかった。無口でないが友好範囲の狭いロマーノがそのような日を過ごすのはこの頃珍しいものではなくなった。寂しいか?聞かれたらどう答えるのだろう。考えても仕様がない。鈍いこいつは気紛れで来るだけのことだ。
半身だけ起こしていた体を再びベッドへダイブさせる。ぼふり、と間の抜けた感触。それを追うようにロマーノの視界へ影をかけたのはスペインの笑みだった。
「まだ眠いん?がきやなあ」
お前がそう思いたいだけだろ、と口の中で思い、それは内心で溶ける。馬鹿にされているのではなく、こいつだってまだまだ親分面していたいのだ、要するに、たぶん。
「添い寝したろか」
「黙れよ」
「じゃあ起きんのー?ロマーノ、めっちゃ顔おもろいわ」
「うるせー。どうせまだ弟帰ってこないんだよ。飯はお前が作れ」
「なんやーほんま」
横に転がった重みで視界がわずかに揺れた、眠気はまだない。
2009-05-11