イ、 シャルロッテ

 バターナイフを握るベルギーの指がふるえている。
キッチンに立つ、スペインと、背骨のきれいな彼女の、お似合いの高い背。キスをするのに丁度いい丈の差を、見取る。流しのそばには貰いものの、触れたらとたんに溶けてしまいそうなジャスパーの皿。白い女神の図柄。盛り付けられている、おいしそうな、おいしそうなパンケーキ、クッキー、ああ、それから、一緒に作ったワッフルも。運ばれてくるのを、銀のスプーンを銜えて待つ、しかし、まだ、ふたりは微動だにしない――いや、きっと、近くでしか聞こえない、心音のようなもので、何かを話しているのだ。聞き取れなくとも、背を向けられていても、わかる。彼らとの付き合いは、このテーブルからキッチンへの距離より、ずっと長い。
 俺は瞬きした。
 別に、眩しいほどのシャンデリアが目交いのふたりを溶かしていったりはしないが。




Bianco


「これはどないすればいいのん?」

 愛想よく尋ねる頭上の声を受け止めて顔を上向けた。瞳が、鮮やかな春の色、といったら彼は「それって褒めとるんー? きれい?」と聞き返す、と思う。鈍く、又、比喩に疎い。ベルギーはふん、と頷き、そして、手元のワッフルを見つめた。好い香りだ、とろとろのメープル。

「こっちやな」

 指差して、彼が手にしたクッキーを移動してもらう。
 楽しそうに、指図に従って、スペインはお菓子を揃えていく。
スペインが聞いたのはお菓子の配置だった。好きにすれば良いのに、事実、他日、そのような言葉は言った数が少ない。特別なこと、彼にとって重要な事象に関しては、たとえば、名づけたり――誕生日に関することだったりは、意見を聞く。それだけ興味がある為なのだろうか。何でも良いのだけれど、そういうときのスペインはとっても素敵な顔をしている。
 ・・・・・・顔が、緩んでいたりは、しないか知らん。頬に手を当てようとしたら、見当違いに耳へ触れたが、わかってしまった、今、自分の顔は笑ってしまっているだろう。だって耳が熱いもの。


「あっという間やなぁー、一年て短いわ」

 ふんふん、と鼻歌に満たない音を宙に浮かせて、スペインが喋る。時計をちらりと見たなら、すでに昼下がりを過ぎた四時、まだ窓の外は明るい。しかしスペインのお腹はくる、と鳴く、ときおり耳に入るほどに側にいるのである。

「うちは、長いかなって、思うとったけど、あ、えっと、お祭とかで、急がしかってん、ほういうこと、です」

 これで、完成と、パンケーキにチョコをかけて、布巾で手を拭いた。水分を吸い取らせて、スペインにも渡す。指を拭きながら、スペインはベルギーを見下ろして、

「ほえ? ベルギー、そないなら今日無理せんでも、あ、休むか? 寝とってもええでー?」

「ちっ違うで、眠いなんて、思ってへんから、ほうやない、んやけど・・・いいです、気にせんといてっ」

 思わず焦って、ベルギーは顔をゆるゆると振る。伸びた髪が首筋に当たってちくりとする。言ってしまえば、よかったかもしれない。どうせ笑って、抱きしめてくれる、腕。察してくれへんかな、とは、高望みか。

「そうなん、大変やなーベルギーも。俺は割と気にせんからなー疲れたーとか、言ってくれへんとわからんから、素直に言ってなー?」

「でも、今は、本当に、平気や」

「そうなんー?」

「ふん、じゃあ、そろそろ運ぼ、お菓子」

「顔赤いで」

「ここ、暑いから・・・な」

「そうなんー」

 同じことしか言わないへらへら口を、憎さ1割、愛しさ9割で、見つめてしまって。



Una rosa


 本日何回目、と数えるのも億劫、というより本当に正確にわからないのだが、とにかくロマーノの誕生日である。つまり目出度い日だ。張りきって着た一張羅は似合わないと一蹴され、けちがついたので脱いだモーニングは今やベルギーによって隅に畳まれている。せめてもとポケットチーフをシャツの胸ポケットに挿すと彼女は顔を赤くして少し怒った。「変や、スペインに似合わん、もう」。ロマーノはいつも通り、ださい、と言った。何が悪いのかと呑気に問い返したなら白い指がスペインの臍辺りを示した。下に着込んだ洒落のだまれTシャツはふたりの不興を買った。
 昔よりだらしなくなったとの評を得たスペインはそれすら気にせずに笑った。楽しければ今日はいいのだ。

「おまたせーロマ、イイコにしとったー?」

 お菓子やら、ワインやら、を並べていけば、果実柄のテーブルクロスを敷いた食卓が華やぐ。甘い小麦粉の香りがスペインの鼻腔をくすぐる。

「うるせえ、俺を何歳だと思ってんだ、馬鹿にしてんじゃねー、チクショウ」

「えー年齢とか、もうわからんやろー俺だって自分のわからんもん。ぼけたんかなーまさかなー? お、ベルギーはロマの前に座ったれ、やっぱ誕生日やん?花のほうがええやろー」

「はいな、スペインはう、うちの隣に座ってなあ、ちゅうかスペインはまだ若いやろ、へーきや、禿げとらんし!」

「ベルギーの基準は髪なん?したらフランスがロリになるんとちゃうの、長髪やで」

「いや、ならへんやろ!どういう意味や」

「おい、ケーキ食わねーのか?食べねえなら俺一人で食うぞ!つーかフォークがないぞ!」

「ああ、ごめんなあ、忘れてもうた。今とってくるわ」

「ベルギーは動かんでええよー、今日は親分が頑張る日やから!なんせ子分が立派になった日やからなあ」

「なにはりきってんだ、別にスペインは何も偉くないんだぞ、俺が偉いんだぞ」

 降りた椅子をベルギーが押してくれた。呆れるような笑い方。

「ロマーノも、偉くは、ないやん」



sogno


 ほい、と行って帰ってで数秒、敏捷なのは変わらない、とベルギーはじっとその横顔を見た。椅子を引いてロマーノに座ってもらい、用意されたお菓子に取り掛かる。初めに皿へフォークを伸ばしたのはロマーノだった。スペインはゆっくりと、しかしベルギーが持ってきた一等おいしいワッフルを口にした。胸の奥に蝋燭が灯ったような。
 仲間はずれでも良いと思っていたのは、昔のことで、今そう考えないのはあの関係に挟まっている感情の種類が違うと飲み込めたからで、ベルギーはスペインに親分としての態度ではなくもっと多くを求めている。テーブルの下で行儀悪くスペインの長い脚に脛を触れさせてみたら、

「ベルギーも乾杯やー」

 と肩を抱かれる。脇のほうへ頬を寄せる。項をスペインの癖がある髪がくすぐる。さらさら、ちょっと、気持ちがいい。

「ワインは今年はフランスが作ったやつなんやでー」

「ふうん、どうりで、酒なんて持ってきたのか」

「え、いらんかったん?」

「んなこと言ってねーだろ。お前だったらどうせトマトだと思ってたぞ」

「この前遊びに行ったらな、これやるから祝ったれーってくれたんやで! うまい? どや?」

「なぁに顔キラキラさせてやがんだ!」

「あ、かっこよかったやろ、ときめいた? なあ」

 問われても、答えられないほど、顔がふやけそうなほど、熱い。すぐ傍の、笑顔がこちらを見ているから。



Notte ed una stella


 かわいそうな、おれ。ふざけるスペインらを前に、くしゃみをしそうな中途半端な顔で笑みを作って、普段しないことだから不自然になってベルギーが首をかしげた。

「・・・・・・どこか痒いん?変な顔しとるよ」

「あ゛ー、平気だぞ、心配すんなよ、

「せやけど、ロマーノのくるんがしおれとるときは、病気か不機嫌なときやって」

「一応・・・髪なんだからたまには普通になってるに決まってんだろーが」

「ふて腐れとる?」

 美味しいものを自分のために振舞う家族、笑いの絶えない対話、それはとても幸せで欲しいものはなんでも手に入る子供のような誕生日みたいだ。心底そう思っている筈なのに目尻あたりがふるえてきて、喉から出ようとしない、自分らしい嫌みやら罵声やらはつぐんだ口のなかで詰まったままになった。









sonno

 星がたくさんでていて、まるでずっと小さい頃歩いた地平線へ続く道――まだ高い建物などなく、林立するオリーブがひかりを遮っていた――それに似ているようだ、と涙ぐむ。唇を噛み締めた。シャンデリアを見つめ続けていたせいにきまっている眼球のいたみを堪えて、星たちをまた見ると、あ、家々に取り付けられたランプだと、気づく、胸が痛いが、強がってロマーノは早足で歩を進めた。さようなら、とは口にせずとも、伝わるものだろうか。せめて、幸せを、愛しい少女へ。
 赤子も、猫も、鳴き声ひとつ建てていない静かな夜で、ロマーノの日に焼けた肌に透明な滴がつ、と伝った。声すら出ない。

2011-05-23