頭上に降るもののことにはロマーノはとっくに気づいていたが、大したことはないだろうと高をくくってそのまま歩いていると春先らしくなくじとっとした空気が煙るような雨を連れてきた。
雨宿りするか。
眉根に皺寄せし、薄暗くなった路地を眺めると、水粒を逃れようとして半ばシャッターを閉めたそのうちの一つ、張り出した屋根のもとに見慣れた姿を認める。胸元に紐の結ばれた白いシャツを着た、そう変わったところのない青年。ただ、重そうな籠と脇に停めた露店用の屋台には、たくさんのものが積まれていた。
誰の目にも分かるほど―――若しかしたら注視されることを望んでいるかのように―――殊更にロマーノが舌打ちすると、あれとこちら以外人っ子一人いないのだから当たり前に、青年は周りを見渡し、やっと流れ星を見つけたときのように満足感をないまぜにした笑みを浮かべた。
「どこ行ったんかと思ったわぁ」
そう云うのは、まず“週末、そっちに行けるみたいやから、待っててなぁ”とロマーノに連絡があり、長年共にした生活上の法則では今頃―――昼時ならどちらもシエスタすることになっているからであり、もしスペインが迎えに行ったならベッドに寝相悪く転がり大口を開けている子分が見られた筈だったが、彼は不在で、天気も良かったため気紛れな商魂が起きだしてスペインは路上に露店を出していた、という次第を諸所省きつつロマーノに大声で伝えた。「そうかよ。けど、俺だって暇じゃねーんだぞ」
ロマーノは己にとってもはや身内用の表情となったしかめっつらで答え、仕方なさそうにスペインへ駆け寄った。雨をたっぷりと染み込ませたロマーノの髪をさばさばとしたしぐさで指通し、愉しそうな浅黒い手によって水滴を散らす。「いちいち探すのも大変なんやけど、もうロマーノやって一人前なんやからなぁ、用事でもあったんやろ」
機嫌が良いのか拗ねた様子もなく、むしろ頬を膨らまし気味なのはロマーノばかりで、無遠慮なスペインの手を跳ね退ける気はないが偉そうに幾らか背の高い親代わりに体重をかけて、「別に」
とだけ呟いた。むやみに人の神経を逆なでするために話すようなところはいつもながら、スペインに何やこのガキと思わせずにいられない、だが裏を返せば安心感と信頼、ときには照れ混じりの本心があるのはわかっていたし、それは幸せな感じがして、どうかしてるとしか考えられないが何だかんだ言って好ましかった。「いいんよー」
「当たり前だろ」
がらがらがらと遠くでシャッターを閉める音がする。雨の間にまで仕事をする熱心なやつはここにはいないようだ。そもそもこの国ではそれが普通ですらある。零雨の向こうにある街並みは今は灰かぶりになって、ときおり反対側の路を駆けて行く、観光客と思しき幾人かの人々はこちらを一瞥すらせず、まるで世界の果てのようだと馬鹿らしくも一瞬考えた。横の男に刻まれていたかつての文字。赤と金色の旗の話。そいつは彼方ではなくじっとロマーノの頭あたりを見ているのだが。若干ロマンチックな思考は昨夜、弟が見ていた誰が見ても退屈なドラマの影響に違いないと決め付けた。「雨、すぐ止むんやろか」
どうせ大した心配なんてしていないだろうに、舌先が良く動く男のことで、スペインは軒下からかつてより筋肉のついた腕を差し出した。「まあ、長くは降らないだろうな。このくらいなら」
「そういうもんなん?」
「俺を疑うのかよ、お前。家のことぐらい感覚でわかんだよ」
「へー俺、ようわからんわ、感覚、なあ」
「鈍いんじゃねーの」
スペインは否定せず「そういうもんかあ」と笑った。こういう風にいつもぼけている。「こんなに降ってても洪水とかなったりせえへんの?どうにかせんとやばいんちゃう?」
「なにそんなに心配してんだ」
「や、なんやろ、気分やって」
本当に言葉通りなのだろう。もしくは話題に困っているか。共に日々を過ごしたときならくだらないこと―――例えば、献立の話、それも明日やその先まで、でもしたものだが、今は思いつかないのも頷けないこともないのだ。回りくどい言い方だが、その通りだ。互いにはこんなにも共通点と呼べるものがなかったのか。「そんな目で見んといてー、親分恥ずかしいで!」
「・・・」
「今度は温度低すぎやって。親分褒めてくれたってええやん」
「んなもんねーぞ。むしろお前は反省しろ」
「なしてー?」
「うるせーから」
「どんな理屈やねん」
「へりくつ」
「うわーかわいないわ」
ぶーぶーと今度は文句を垂れている。忙しい奴だ。何も言わなければどうせ暇だというのに、勝手に回りへ散らかして、片付けるのに躍起になっている。ロマーノのことも、同じかもしれない。こんな風に懐柔しようとしたからこそ、面倒なことになったのだ。「あいつのほうが大変だろ」
つい口から零れたのは、普段なら会話の種にもしない弟のことだった。「あいつ、って―――ああ、イタちゃんのことか。ちゃんと名前で呼ばんと分からんなー」
「うるせー」
「せやなあ、ときどき言ってるもんなあ。ヴェネチアあたりは大変やろなー、水路ばっかの街並みやし。俺は好きやけど」
「晴れた日は、きれいだぞ」
「うん、知っとる」
なにが全部わかっとる、だ。ロマーノに関してそういう過信したところがあるのは、かつての栄光の欠片が残っているゆえの思考なのか。悪くはない。なにせロマーノは拗ねたらなかなか直らないし、人には慣れず、男相手だとよっぽど人相の悪い奴でない限り分け隔てなく口が悪い、そのような難儀な性質で、どうにも人は寄り付かない。そんな中でスペインはどうだろう、何を気にしていると言うのか。頭に乗せられたままの逞しくなった腕は、躊躇いなくロマーノに伸ばされる。「お前、その荷物どうしたんだよ」
「ああ、これ?これはなー、親分貧乏やからついでに稼いでこいって上司に渡されたんや」
「ドニャヒメナ、うし、豚、サグラダファミリア」
「そうそう、メジャーやろ?どうかなー」
「こんなもんイタリアで買う奴なんかいねーだろうが」
「う、それはなー、まあ、上司さんが渡すもんやし」
「これなんかはいいんじゃねーか」
「んー?絵やて、なんかようわからん」
「なに描いてあんだかよくわかんねーけど、こういうの好きな奴いるだろ。広場ででも売ってろ」
「おー、アドバイスおおきに」
「ふん」
「もうちょいで止むんやろか?」
と何一つ疑っていない言葉が落とされた。信じなくてもいいのに。「止まないかもしれねーぞ」
「けどお前ゆうたやんか、俺はお前を信じるでー!」
だったらどこまでをもうすぐと言えるのだろう。短い雨なら上がるのはまだか。ロマーノはその問いをスペインと自らに、無意識に重ねていた。どこに線引きがあるのか、スペインがどこまで嘯き真直ぐで言葉を見通せるか。いつかこの距離が伸びるのではないか。これらは、感傷的ですらある。「なあ、」
よっぽど弱々しい顔をしていたのだろうか。大っぴらには教えたくない事実を言えば、ロマーノはよく泣くのであった。そうしたら誰か、一人しか心当たりの無いそれが来てくれるからだった。我侭な子供だったし、今も到底変わったとは思えない。そんなロマーノを、スペインは広い胸の中に隠すように抱きしめた。「ロマーノ、眠いんか?」
声も表情も明るいが、それに察しているとは思いがたいけれど、全て分かった上でこうしているのだと思えるような温度だった。「このまま駆けていこか」
「お前が濡れるだろ。風邪引いても看病なんてしてやらねーかんな・・・横でピザでも食っててやる」
そういいつつ結局は手を拱いてはいられない落ち着きの無い性分だけはお互いはっきりと理解していて、スペインはロマーノごと雨の中へ身を投げ出した。空は暗く、善良な人々はシャッターの奥に引っ込んでいる。「せやなあ」
これもむやみに明るくどうでもいいような声だった。2009-06-28