A.B

振り仰ぐと鮮やかな髪が彼女の愛嬌のある顔立ちにかかっていた。

「何しとんの」

奇妙なイントネーションでこぼれた台詞だった。この広い家の主である男も似通った訛りを使うから、面倒くさい。いちいち覚えてもいられないのでロマーノは彼自身のお国言葉で話す。

「ベル」

そのあだなの由来と云えば正式名称の短縮形に過ぎないのだが、声を受けたベルギーはほがらかに笑って見せた。手元には桶と水で濡らしたタオル。

「はよ行かんと、あいつ部屋でて探しゃあるし」

そう言うのはスペインが風邪で寝込んでいるのに起因している。仕事が終わらないなどと真っ当なわけもなしに外へ出たがるのは落ち着いていられない性だからだろう、前の不況と比べれば今回のは軽度といえるのもあるかもしれない。
しかしロマーノは唇を尖らせた。もしあいつが探すとしたら、それは誰なのだろうか、と。今隣にいる長身の少女はそう昔でなくこの国にやってきた。さぼってばかりのロマーノと違い、彼女はしっかり働くし、何かにつけ器用である。口悪く言えば、役に立つのだ。このときだってロマーノにできることはなにもなく―――広い屋敷は道を迷わせたし、厨房に着いても大の大人ばかりの場所ではきちんと物を要求できる自身もなく、また棚にかかる布巾を取るのだって、ロマーノの身長では指先すら届かないのだった―――こうしてスペインのいる部屋のすぐ側で彼女を待っているしかなかった。

「放っといても、治りそうだけどな。あいつなら」

不機嫌そうに言い捨てると、相手は子供だから暴力を振るわないのだと表情で語る呆れ混じりのベルギーの顔が横を向いた。俯くと、かつかつかつと連なる音がした。足元を見れば高さのある靴である。いつの間にか追い越され、その背に従ってロマーノは部屋へ入った。壁には異国調のタイルや、間違いがあったときのための物々しい形をした幾つかの武器がある。その他諸々、あまり統一感のない装飾のなか、目に入ったのは羊皮紙に描かれた人物像だった。贔屓目に見ても個人を特定できない絵は否定しようもなくロマーノによるものだった。大きく名前が書いてある。半ば回収されるようにして渡した青年の絵だが、本気か褒めてくれたそのモデルであるスペインは大切に扱っているらしい、紙には皺一つなかった。

「どうもない?」

ベルギーが尋ねている。横たわったままのスペインは枕にのせた頭を少し傾け、目の前で水差しをさしだす少女の先にロマーノを見た。

「あ、ロマーノ、風邪うつっとらん、大丈夫か?」

「そうやないやろ、スペイン!自分のことを気にせんと駄目や・・・風邪引いてはる」

丸みを帯びた掌が色の濃い肌に触れた。熱を確認しているらしい。すぐに手を離し、小さく左右に首を振った。

「明日になったら治るやろー」

「スペイン!」

阿呆、と涙声とも聞こえる声を上げて、ベルギーはベッドの脇に座り、体を乗り出した。むね、と口が動いたのを首をかしげたベルギーに対し、無遠慮にのっとるよーとスペインが笑った。

「ほんま、馬鹿」

それでも体制を維持するのに何ら疚しいことはないのだが、病人を心配しての形振り構わなさに近いものであるから、しかしロマーノは今以上にふたりとの距離を狭める気が起きず、黙り込んだまま後ろ手にトマトを抱いていた。少女が厨房に行っている短い間、庭先で育ったトマトを女中に必死で頼んでもいできてもらったのだった。しかし視界がロマーノよりもずっと高いベルギーは気付かなかった。そうであれば、人見知りするロマーノが抱えたものを言い出せるわけもない。トマトは温い温度に変わっている。いっそ頭に投げてしまえば楽ではないかと思わないでもない。いや、むしろそれを望んでいる。一人分のトマトだが、言ってしまえば二人共にトマトの特有の酸味を持つ果汁をふりかけてしまいたかった。素直さの欠片も持たないロマーノはベルギーが来て一層、意地の悪いことを考えるようになった。
もし、スペインと二人だけだったなら。そうしたらロマーノも幾分か簡単に見舞えたはずだった。トマトが顔で潰れても、農作業に慣れ、かつ懐の意外と広いこの男であるから許容しただろう、けれど現実は違うのだった。

「なあ、平気?もしどっかえらかったら言ったって」

「あんなーちょっと肩凝ってる気がするんやけど」

「・・・風邪、治ったらな。いくらでも揉む」

「なーんかやらしいわー俺恥ずかしくなってもうた。こう、響きっつうか、そういうのやなー」

「フランスに影響されすぎや!」

「そんなことあらへん、って、ロマーノ?」

はっと顔を上げると、ベルギーの静止も聞かずベッドから飛び降りて、スペインはロマーノの体を抱き上げた。

「どしたん?なんかあったんなら言ったってな」

複雑そうなベルギーの顔。柄の擦り切れた床板にはタオルがぼとりと水を含んだ重そうな体で仰向けになっている。その内側の色を見て初めて、それがかつてベルギーが着ていた上着の布地だときづいた。不思議なことではない、こういったところにも、不足は表れてくる。

「なあ、」

心底こちらのことを考えている目だった。夏草の色で、むやみやたらに泣いてしまいたくなった。手の中で潰してしまったトマトを、スペインは何の躊躇いもなく舌で舐め取った。熱かった。

2009-06-14