こえ

「ロマーノ」

やつは眠りながら暢気そうに呟いた。 それは夜中のことだった。なぜ起きたのかは、トイレだったか、喉が渇いたからだったか―――急に忘れてしまったが、そうだ、飲み物を取りに行こうとしたときだった。広い家といえどそろそろ物の位置関係も分かってきて、ベッドから降りようと絨毯に向かい足をぷらんとさせたとき、その状態だと背後に寝転がる、さっきまでロマーノの横に眠っていたやつが、ぼそりと言ったのだった。 口から零れた自分の名前に驚き、振り返って見たやつの顔が存外に優しく緩んだ表情だったのに瞬きし、それから懐かしいような気がして唇を噛んだ。
ベッドをジャンプ台のようにして飛び降りる。
ギイ、ドアの音が大きく響いたがやつは身じろぎすらしなかった。息をついて廊下に出る。広い。イタリアの家にも装飾品は、主に絵画などが多かったし、ここも大差ないのだが、どこか違う。遠い国の匂いがする。ここと、ロマーノの家、ではなくもっと遠くの。心もち早足に音のよく響く廊下を通り過ぎ、重い戸を開けて水差しを持ち、逆戻りに駆けた。夜、と言うのはなぜこうも不安を覚えさせるのだろう。張り出した大きな窓の向こうに広がる茫漠とした赤い土の路に視線を走らせるたび何かいやしないかと横目で見てしまい、部屋に戻りスペインの間の抜けた寝顔を見たときには気が抜けてふらふらとベッドに横になった。水を口に含みながら寝転がると言う行儀の悪い行為を見咎めるものはいず、そのことを意識するとスペインがそばに寝ているというだけで気分が急に安らいだ自分に気付いた。

「ばかづら」

呟いて見つめる。灯り一つない暗闇ではどちらも同じ色だが、普段なら色の濃くうつる肌にあるロマーノより大きなその口が呟いた台詞を、胸のなかで辿る。ロマーノというのは名前だ。誰のと言ったら、そのような名を持つ奴は自分以外、二人といない。当然、こちらのことを言ったのだろうが、そのときスペインは眠っていたのだ。だったら、きっと夢で呼びかけたのだという憶測ができ、そこから正しいかは分からないものの若しかしたらスペインの夢にロマーノが出てきたのではないだろうか。さて、どういう理由で。無許可で、ではなく無意識に、己の名前を呼ばれるのがむず痒かった。

「勝手に呼んでんじゃねーぞ」

ふう、とため息混じりにその顔と向かい合って丸まる。体にかけた布のずれた音が鳴った。それ以外はみんな静かで、一度瞬きすると眠気が訪れてきた。もう一回目を開けると鮮やかな緑が視界を埋めた。

「起きてんのかよ」

「あー、うん、今さっきなあ」

「そうかよ、俺は寝るから黙って寝ろこのやろー」

「あんな、夢見てたん」

「・・・だろうとは思ったぞ」

「寝言言っとったろ。ちょおっと、覚えてんねん。俺、お前の名前呼んどったかなあ」

「覚えてんじゃねえかよ。でも、それだけだぞ」

「そっかあ、なあ、ロマーノ聞きたい?夢の話。なあ、聞いてくれへんー?」

頭に生える一本の癖毛に伸びる手を払い落として、

「どうせお前勝手に話始めんだろ」

頷いてから顔を寄せた。なんとなく内緒話をしているような雰囲気だ。ロマーノにはそのようなことをした経験はないけれど。近くによると呼吸の音が大きく聞こえる、そりゃあそうだと思うもののいつも横に寝ているだけでこいつが息をしている、などと耳を尖らせながら眠ることなんてなかったからロマーノの少し心臓が早く音を立てる。

「まあそうやなーさすが子分やから、よくわかっとるなあ」

「さっさと言えよ、こっちは眠いのに聞いてやるんだぞ」

「分かるわー、だってロマーノ目えしょぼしょぼしとるし、瞬き多いしなあ、見てるとおもろいわ―――でな、ずばりロマーノが空飛んでんねん」

「あ?」

「やからー、夢の話しとん。ロマーノが神さんみたいに頭光っとって」

「は、はげてんのか・・・?」

「もー、ちゃうよ、輝いとるって話やん!ロマーノ天使でー俺はそれ牛牽きながら見てたんや。イタちゃんも驚いとって」

「何で馬鹿弟が出てくんだよ!第一お前の夢きもいぞ!」

「なんかなあ、一緒に農業しとったみたいやな、ちゃんっと働いとって感心したの覚えとるわー」

何となく不愉快になる。どの部分にか、全体的にロマーノにとって喜ぶべき要素がないが、まず天使で空を飛んでいるというのは生きているとは考えにくいし、それを思いつくスペインの頭が癇に障る。次に下でのうのうと働いていたと言う馬鹿二人組。どういう頭してんだよ、あと、ヴェネチアーノ。それがいちばん気に入らない。なんでお前が出てくる?俺の代わりか、そもそもそこにロマーノが追い出されたようなかたちでいなくなっているのが腹立たしい。

「なんだよ、それ。お前の願望かよ」

「へ?夢やって」

「・・・よく言うだろ。夢ってのは何か自分が考えてることが出てくんだって」

「へーそうなん?知らんかったーへーよく知っとるわー・・・ってロマーノ!ちゃうよ!ちゃうって願望!」

「あ?」

「ちょ、柄悪いなあお前、けどごめんなーそうじゃないんや、お前、そんな不安にならんといて!」

こいつにわかるもんかと眉を顰めていたのだが、スペインは何を諒解したのかフォローするように強くロマーノの頭髪を混ぜるように撫ぜた。

「お前、空飛んどるとかいややったん?」

「・・・ちげーよ。もう何も言うな」

弟のことに違和感を得ないこいつの思考はどうなっているのだろうか。鈍感、といわれるスペインは、そうでなくそもそもロマーノとは性質が異なっており、だからこそ話の種に対する意識から噛み合わない、ただ、嫌にならないのもまたその暢気が打ち消す笑みだという相反するものの不可解さだ。
それを証明するように、またスペインが口を開いた。

「ロマーノめっちゃ笑ってたから俺嬉しかったわー」

くしゃくしゃにされた髪の間から声の主を見上げると、へらへら音がしそうな顔を返される。
驚いたことに、満面の笑顔だった。

「こんなん夢でしか見られへん思って目に刻んだんや」

ぽつり、ぽつりと、別段優しい口調でもないのに、急にまるでロマーノのために誂えた言葉のつながりに思えた。
複雑に絡まる蔦を描いたような、小さな床板を敷き並べて奥まで続く長い廊下。それの所有者であるスペインの間の抜けた呟き。

「意味わかんねー・・・」

「へ?」

お前が。

「寝る」

「なんや、まあ、夜も遅いしなあ。大きくなるんならロマーノ、よお寝ときー」

全く大人ぶった言葉だった。まだ少し耳障りだが、訛りの濃い声が口にする偉そうなそれらの音を聞いていた。
ここは遠い場所なのだろうか。
やつのふところに潜り込むようにして顔をうずめると、そこにある心臓の音が耳によく沈んでいく。温かいのは真っ赤にした顔だけなのだろうか、誰かがすぐ声の届く位置にいると息苦しいほどに熱いのを初めて知った。ロマーノがそんなことに思いを馳せていることなどかけらも気づかないだろうスペインはただ頭の上で笑うだけだった。

「なんやのロマーノ懐いてー・・・可愛ええなあ」

2009-05-26