夜明けの空がきれいだった。


ラピスラズリ

ぽてぽてと、おぼつかない足取りに耳を澄ませつつ、スペインは鼻歌を歌っていた。

「なんだそれ」

春が間近にある港町へ向かう途中のことだ。夕やみにもめげず歩き続けていたのだが、スペインの考え違いか、若しくはロマーノが言い続けた我侭と長い休憩のせいか―――正解は間違いなく後者だが、指摘したところで

「ちげーよ、お前が考えなしなんだぞ」

とでも、阿呆らしい返答しかないだろう、こいつはまだ子供だしなあ、と自らに言い訳をしているが、目的地には今しばらくかかるようであった。もしかしたら、あと半日。指先だけ掴むような繋ぎかたの左手と逆の腕には上司からのしょっぱい内容が書かれた羊皮紙と子分ご所望の幾らかの果物が入った籠がある。若干重いが、同程度の力を嫌がらせのように寄せるのが反対側にいるので、長の散歩としては割り方バランスが取れているかもしれない。麻痺しているとも云える。

「知らん歌や、どっかで聞いたんやけど」

どこやったかな、こう、首元まででかかっとるんやけどー、小首をかしげる横でロマーノは唸るような声で小さく不満を述べる。

「俺が」

「ん?なんや、どっか痛いんか」

こいつは人の言うことにひどく鈍感だ。ロマーノの膨らませた頬に浅黒い色の指が伸びる。

「なんや怒っとるんー」

「・・・ふふはい、ふぁんふぇーねー」

つつくな! 口に出さないのは俺が大人だからだ。全く嬉しくはない。
一頻り「ぷぷぷ」と笑いながら頬を突いたスペインはまた前を向いた。道は樹木が少なく空が視界いっぱいに広がっている。それはスペインには見慣れた、愛おしいほどの景色だったが、風光明媚、青い海の広がる美しい国として生まれたロマーノにしたら物足りないかもしれない。考えても詮のないことだが、一度病にかかった子供だから、余計な心配もする。ちらりとロマーノを覗き見ると、

「なんだコノヤロー」

と言われてしまった。ばればれだったらしい。

「・・・やっぱ怒っとるんかなー」

「しつこいぞハゲ!」

いや、どう考えても、どの角度から見ても、ロマーノは真っ赤な顔、つまりは怒ったような態度をとるときの表情をしている。
ん、気にしないことにしよ。
そう決めて、スペインは繋いだ手を強く振った。

「あほっ、俺がぶっ飛んでもいいのかっ」

「あ、そうやった。お前ちびやからな、堪忍なー」

ぴたりと止めると反動に耐えるためかロマーノは強くスペインへしがみついていた。 かわええなぁーロマーノは。 思わず顔を緩めると「このやろ、お前みてーのをサデストって言うんだぞ」と吐き捨てるように言われた。

「はー?なんやそれ―――サディスト?」

「そ、そんなところだ」

「間違えとるし」

「うるせーぞ!」

「しっかし失礼なやっちゃなー親分は違うで、そういうのはトルコに言ったれ」

「・・・ふん」

無言になってしまった。別に沈黙を恐れている訳ではないし、何も言わなくとも不自然でないくらいの月日は過ごしている。が、何となくロマーノに悪い気がして、無理にでも会話を繋いでみた。

「まだ着かないでー?」

「それは、だからお前が」

「や、違くて、えーっとな・・・大丈夫か?」

「わかりきったこと聞くな」

「平気か」

「違うだろ!疲れてんだよこっちはよー」

言いつつごすごすとスペインの腿辺りに頭突きが幾度か繰り出された。

「そう言うなら乗り物でも持ってくればよかった話だろ」

「へ?馬車は、ちょっとなぁー高いんやけど」

「なんかうしうしうるさいやつ」

「あー」

得心した様子ではあったがそれについて疑問を持つことはないらしく、ロマーノに向かってへらへらと笑った。

「なんや、ロマーノ、牛好きなんー?」

「はっ、誰があんなトロくせーやつ好きになるかよ」

スペインが思い浮かべたのは家に繋いだ特徴的な鳴き声の黒い牛で、それに乗って移動したとして町につくのはいつになるのだろうと考えると、それはいくらなんでも無理やなあと内心思うのだった。牛を牽いてやってもいいが、そうしたらロマーノは振動で余計に疲れるだろうし。
一応そこまでは思案したものの、見た目では只空を見ながらぼうっとしているようにしか見えないのをスペインは知らず頷く。

「んー、でもいいやろ」

「何がだ、俺はもう歩き疲れてんだぞ、このやろー」

不毛な問答だ、とロマーノは最後に思い切り頭をぶつけた。「いでっ」と鈍い声を上げつつも叱ることはしなかった。
一人でわずかながら反省していると、わしゃわしゃと頭巾の上からスペインがロマーノの髪を掻き乱し、思わぬことを呟いた。

「じゃあおんぶしてやろか」

そもそも家や外出先の人の多いところでは、特にもっと小さい頃など肩に乗せて歩いたものだ。どうせそう重いものでないし、いいだろうと思って再度腕を揺らしたのだがロマーノは、

「ふ、ふん、嫌だぞ」

の一点張りだった。

「意地っ張りな奴やな、可愛ないなー」

「な!このやろ人が気を使ってやれば!」

「あーそうなん?なんや大人びてもうたのかと思ったわー」

「当たり前だ!俺だってもう成長したんだよ」

若干胸を張るような言い草だった。どんな主張なのやら、そのわりに子供っぽい。
そうか、成長―――と目線をロマーノのあちこちに向けてみる。身長、伸びた。顔のつくり、幼さもまだ残っている。性格―――がき、ではないだろうか。そこがかわええとこなんやけど。
じろりと睨まれたが気づかれたわけではなく、なにやら言いにくそうに口をもごもごしている。都合の悪いときは開き直るか、ぶすり、黙っているか。素直でないロマーノに「なんやー?」といたって軽い調子で尋ねると、重そうな口が開く。

「歌ってたんだぞ、この前、掃除してやってたときに―――本棚倒して、誤魔化しに。やっとお前が来たときもちょっと、歌ってた」

「あー、何の話やったっけ」

「さっき言ってただろ、ばかスペイン、お前が歌ってたやつ」

「あ、そういや歌ったなあ、で、それが?・・・あー、わかったわー、思い出した!お前本全部棚から落としとって、俺怒ってて忘れとったー」

「そうだ、俺のところの、カンツォーネだぞ」

「そうやそうやーあれ、俺ごっつ好きになってもうたー。何かいいよなあ」

能天気なものだ。忘れていたくせに、と拗ねたくもなるが、夜を塗りたくったような冷たい風が時折頬を撫でるのに、冷静さを少しは取り戻す、の繰り返しだった。あるはずはないが、スペインの家だけに空気を読めないから、こういうタイミングで吹いているのではないかと思いたくなる。
ふんふん、とどこかはずれた鼻歌をふたたび歌う声が横にあるのを意識しつつ、ロマーノが背伸びをして遠くを見ると赤茶けた色の広がる屋根が視界をかすめる。あれか、と思いスペインへ尋ねるように首を傾げると、気付いていないのか本当にこちらの考えを読む気がないのか、全く関係のないことを言い出した。

「なあ、ちょっと歌ってくれへんー?」

「はあ?」

「ロマーノ頼むわーやっぱ俺のじゃ違うやろ?本場の聞かせてえな」

「・・・ちっ」

なぜ結局丸め込まれてしまうのか。
一節口ずさんでやると感動したふうでスペインが目を輝かせた。

「わーロマーノすごいわー!親分感激やわ、自慢の子分ちゅーかなあ!やっぱりいいなあイタリアー!」

ぶわっと顔が赤くなったのを、膨れっ面で隠そうとして、トマト見たいやなあやっぱと馬鹿の一つ覚えに言って「でもかわええなぁ」と気分がいいのか付け足した一言がロマーノの頭に広がって染みるようだった。なかなか落ちない。作為なしに降る、褒めるための言葉がどれだけ嬉しいものであるのか、こいつはきっとよくわかっていないのだろう。「う、うるせー」というだけで精一杯に、ロマーノは手を握りなおした。
瑠璃の石のように紺色を抱いていた空がいつからかこの地方の橙色をした果物に染められ、薄青が広がっている。

2009-05-13


すみません:マルキ・ド・サド(1740年6月2日 - 1814年12月2日)