水疱にきす

 何処かで大きな火事があったらしく、昨晩までの数日間、頭を暖炉で焦がされたように熱く、また今日の朝に冷えた額へ指を添えていて、安堵のまどろみでぶらんと手をブランケットへ沈ませたところ、その甲に胡桃の実ほどの腫れを見つけた。とたんに目が冴え、ベッドから軽やかに降りて身仕度を済ませ、次第を上司へ伝えた。終えた頃に丁度腹の虫が食餌を欲しがって鳴き、その足で食堂へ向かった。

「あ、ベルギー、まだメシ食べとらんかったんや」

 陽気な声が頭上へ降り懸かり、見ればくせ毛というよりは寝癖、としか思えない髪の男が立っていた。

「おはようさん、スペイン、髪梳かした?」

「今朝はまだやで、はよ朝ごはん食べたかったからなー」

 笑った顔が太陽みたいだと内心で比喩したことがあるように思う。その顔の薄皮一枚のしたに、果たしてどのような感情があるというのだろう。寝起きに見た鏡と同じように未だ火照っている頬や眉間を、無頓着なスペインは気遣わない。
 ベルギーは首をふった。
 求めすぎなんとちゃうか、と気づいた。

「ロマーノは?」

「寝とる。昨日、俺の武勇伝話してやったら目ぇ冴えてしもたみたいでなー、お月さんが隠れるまで起きとったんー」

 呑気過ぎる言葉をたしなめる。

「ほういうときは、よさりまで起きてへんで寝かしつけるのが、親分の役目やないの。きちんと育てなあかんよ。ロマーノの身長、伸びへんで、困るやろ」

「ちっさいままでも俺は構わへんでー、かわええやん?」

「あんたの、趣味の問題やないの!」

 何故どいつもこいつも妙な性癖があるのだろう。国なんてものはひとくせもふたくせもないと務まらへんのやろか。常識人のベルギーには頭が痛い。困ったように頬を膨らませて見せても、スペインはへらりと笑うばかりだ。
 苛々している自分に気がついて、眉間を指先で揉むようにしながら座ると、なぜかスペインが向かいに座った。

「食べてなかったん?」

テーブルに置かれたパンをちぎった。口に入れ、咀嚼する。高い天井の模様を一通り見回したあと、上目で窺うベルギーに気づいて、スペインは口を開いた。

「いや、もう食べたでー。ベルギーが来たから、一緒にいよかな、思て。ロマーノもまだ寝とるし、つまらんやん」

「ほうでっか」

 黙殺しよう。

「なあ、お話せえへんの?」

「今、食べとるもん」

「昨日の夜になーロマーノに話したったこと、知りたい?」

「……ちぃっとは」

「そら、面白かったでー!ベルギーにも聞かせてやりたかったわー、女の子やから、一緒に寝たらあかんもんなぁ」

「当たり前やろ。で、何の話しとったの?」

「ちょい昔になー、俺がイギリスのアホ殴った話なんか傑作やで!」

「あー……随分前のことやん」

「そんでー、あとは、ロマーノ取り戻しに行ったときのことやろ、あと、航海したこともやなー、あ、ベルギーも聞く?聞く?」

「聞いたことあるわ」

「そうやったかなー?」

 サラダのちしゃにフォークを刺す。新鮮な水けの感触を楽しんでいると、スペインが笑った、ものほしそうに見えなくもない顔をしていた。お腹が空いているのだろうか。浮かんだ疑問に、眉を顰めそうになったが、笑いかえした。

「ほうですよー」

「なあ、それ、うまいん?」

「サラダ? これ、スペインも食べたんやないの?」

「さっきなあ、今は、もう食べてへんもんー、なあ、ちょっと、くれへん?」

「もん、やないやろ。ほんま、よう食べるのは、子供だけでええの」

「ベルギーは意地悪やー」

「どっちが、子供なんやろなあー。あんた、じゃあ、皿持ってきぃ。したら分けたるから」

「フォークに刺してくれればええで!」

「……うちは、嫌や」

「なんでなんー?」

「や、って、ほんなことしたら、なあ」

 同じフォークを使うなんて無理だ。この男に恥じらいというものがないのか、いや、その行為を恥と認識しないだけか。考え方の異なるものの思考をなぞるのは難しい。俯きがちに黙っていると、あちらにも彼岸の思惑などわからないのだろう、案の定勘違いしていた。

「なんかベルギー冷たいわー親分のこと嫌いなん?」

「ぶえっつ、に、そういうわけや、あらしまへんで」

「ふーうん、そうなん」

 にまにましている顔を張り飛ばすような性格では生憎ないので、内心焦りつつ、汚れていない唇をテーブルナプキンで拭いてしまった。わかっていて喋るのかどうか、ベルギーには判断できない。空腹、ではないが、本人が主張するには、満たない腹を抱えているらしい、ものには、食事を与えてやりたい。子供みたいなスペインだから、尚更だ。自分のうっかり世話を焼いて甘やかす性分を呆れながらも、手元のサラダボウルへ目を遣った。

「ほい、」

 大きく口を開けたスペインに、餌を食わせるように、フォークを差し出した。

「ちょっと苦いわー」

 目をつむり、口をすぼめた、あからさまに感想を表す顔が、かわいい。
 逆に笑ったベルギーを、もう一度、スペインは、意地悪やー、と言った。サラダを片付けた。
 ぽてぽて、ときおり、こてん、と転びかけた音が食堂の外から聞こえ出して、ベルギーはそちらを注視した。
 ロマーノが来た。

「スペイン、コノヤロー!お前だけ何メシ食ってんだ」

「朝一番から罵倒やん、この子」

「ほうやなー、あんたの教育の成果が出とるんやなぁ、すごいわ」

「そ、そこで何こそこそ文句言ってんだ、聞こえてんだぞ」

 手招きするスペインを忌避するような、嫌そうな表情で、ロマーノはしかし、男の隣に腰かけた。

「おい、ベルギー、なんだ、畜生」

「べっつに、なぁんも、言うとらんで、うちは」

「お前、何抱えとんのー?」

「や、やらねーぞ!」

「まだなんも言うてへんやん!」

「で、なんなん?」

 ベルギーが促すと、しぶしぶという風を装って、ロマーノは不貞腐れた顔を隠すように籠をテーブルへ置いた。
 ロマーノが持ってきたのは見慣れた赤い果実だった。

「トマトやん」

「さっき採ってきたんだぞ」

 ふん、と鼻息を荒くして誇らしげなロマーノに対し、起きがけにトマト、という食い合わせに頭を傾げているとじろりと睨まれた。怖くは全くないが、気にはなる。今度は反対側に首を傾ける。と、ロマーノも同じように頭をこてんと右にする。

「うぼあかわぁああ」

という意味を成さないうめきを抑えきれずに、口から漏らすスペインを心底気持ちが悪そうに見上げたあと、すぐ、ベルギーにひとつ、手をぐんと伸ばして、差し出した。

「へ?くれるん?」

「お前、あんまりトマト食ってないだろ」

 それきり続かない言葉の代わりに、ロマーノへ食事が運ばれてきた。主食とオレンジジュースが並ぶために籠を床へ下ろした子供と、少女を、湯気が遮る。ベルギーはこと、と無造作にトマトを置いた。
 ロマーノがトマトとオムレツとを見比べる。

「ほれ、食べな、大きくなれへんで?ほんまは、はよ寝るってのも大事なんやけどな」

 子供の脇に座る男を眇目で見ながら話しかけると、当のスペインは歌っていた。

「あんたに言うとるんやけどなー」

「へー俺のことなんー?わからんかったわー」

「ほうですかーじゃあこれからは聞いとってくれへんかなー」

「ええでーそいで、何の話なんー?」

「スペイン、お前……」

 子供にまで軽んじられる始末だ。その口がオムレツを口に運んだところで、ベルギーは頂いたことだし、と一口でトマトを半分くらい食べてしまった。甘酸っぱさが口内に心地好い刺激を齎す。飲み込む。

「ふん、うまいわ!」

 素直に感心したベルギーに対して、茶色い髪を妙にゆらしながら、誇らしさを顔に表している。わかりにくいようで、まるっきり剥き出しの喜怒哀楽を、ベルギーは読み取る。

「ええ子やな、ロマーノは」

 頭を撫でてやる動作も、お互い慣れたもので、ロマーノも文句を言うだけになっているのを、ベルギーはにんまりと笑った。

「女なのに」

 とぶつぶつ言ってから背の高いベルギーを見上げてはっとし、

「女のくせに」

 と言葉を直した。  女の子が好きなロマーノは、しかし今より更に幼い彼を知っていて、そのことをからかうベルギーには意地っ張りな態度をとる。キスしたって、などという極めて軽薄なスペイン語を教えた男がいたせいで、ベルギーとロマーノの初対面は彼にとって顔から火が出そうなほど恥ずかしい思い出となって残っている。
 スペインは満面、というより頬の辺りからこぼれでているような笑いを、隠しもしない。

「ロマーノ、あんた、笑われとるで」

「うっせーばかあほ、畜生」

「ほういうことしか言えへんわけじゃないのになあ」

 本当は優しいのを知っている。子供らしくもない気遣いだって持つ部分もあるのに、普段はまるで他愛ない言葉ばかりぽんぽんと投げてくる。スペインとは違って、臆病で、底のある意地の悪さ。弟みたいだと、抱きすくめてやりたくなる。

「親分にはくれへんのー、ロマーノー?」

「昨日の話の駄賃だ、くれてやるぞ」

 ロマーノの算段はどうしたのか、聞き飽きた話の代金には多すぎるような、いつつのトマトをスペインへ寄せた。

「ありがとさんなぁ」

「生意気やなー、いっつも気障やし、ホンマにこの子は大人になったら、たらしになるで」

「あかん、ロマーノとイタちゃんは俺と結婚するて決めてんねん!」

「ばかかお前は!」

「あんたは大人になってもほういう奴なんやろなあ」

 指を拭いながらにやりと笑ったベルギーを、スペインが、ぱっと、まっすぐ見た。

「ベルギー?」

 丸々とした目が、どんどん、大きくなる様を、見てしまった。

「へ?」

「手ぇ、怪我しとるやん!」

「ふ、ふん、ふん」

 驚いて息が止まる、というのはこういう状態なのか。

「犬じゃねえんだからよ」

 そんなからかう声に反撃することもかなわない。鈍く、他人のこころに興味がないような顔をしていて、今までだってベルギーをかえりみたりはほとんどなかったのに、スペインは傷を探すように、ベルギーの指先へ目を向けていた。撫でてくれた。

「腫れとる、料理でもしたんー?女の子なんやから、包帯くらい巻いといてなー」

 暑い指が、じとりと痛みを神経に伝える。
 声も、言葉のひとつひとつも、表情だって能天気で、ベルギーを慰めるためには働いていないのに。

「だんないよ、トマト、悪くなるからはよ食べな」

 ベルギーは手の甲から焼けた指をはがして、スペインに笑いかけた。そうすることで安心したのか、スペインはもうこちらを気にしなかった。次に口にしたのは海の話だった。碧い海面は昨日の夜も語った話に纏わる色の思い出だ。
 ロマーノがこちらを見て、安堵のため息を零した。ふたりとも、何も言わなかった傷を、気づいたらしい。
 奇妙に腫れて引き攣れた皮膚をひと撫でする。数十分前の苛立ちが瞬く間にうせたのを感じた。金色の睫が瞳を隠して、又すぐに現れた。
 どうしてか、このひとの緑色の瞳は、ひとの心を奪うのだろう。

2010-10-12