曖昧な音だと感じる。きゅ、きゅ、人工皮膚の生温い色をした掌を繰り返し握り、一度瞼をきつく閉じた。そのくらやみの向こうに見えるのは新緑の丘だったり、鮮やかな金の髪。幼なじみと弟の顔は今もはっきりと覚えている。ずっとみなもに浮かんでいるような感覚を持て余していると、蝶番の軋みに耳がつられた。振り向く。
眩しいひかりが開かれた戸からもれていた。一人の青年が立っている。
「勉強してるんですか?」
期待を籠めた声に聞こえたから、あえて極めて軽薄な表情になる。時計は持っていないが、腹は勝手に時をはかる。朝ごはんのために、机に広げるだけにしておいた地図やら、新聞やらを隅へ除けようとすると、鉛筆がコン、と床の木目へ落ちて撥ねた。「あーあ、エドワードさんは、本当に」
物ぐさだとでも言うつもりだったのか。穏やかな性質の青年は言い切らずに息をのんだ。「なんか集中力、続かねえんだよなー」
腰を曲げて鉛筆を左手で拾い上げた。背を向けられたアルフォンスは小首を傾げて、のどの違和感をごまかす。「休息も必要だというし」
「そうだよなあ、うん、朝めしもくってねーし」
義手を使い、机上から二、三冊の科学書を積んで、「腹減った」
「寝てないんですか?」
「いや、」
相手の胸におしつける。わ、と慌てるアルフォンスを尻目にドアを抜けた。「貸してやるよ」
「あの、これ、僕のお金で買った、僕の本ですよ」
「気にすんな」
がたがた揺れている窓には冬木と灰色の空とくすんだ煉瓦。どうやら風が少し入ってくるらしい。背後に従ってきたアルフォンスが言う。「少し寒いかな。エドワードさん、冷えるかもしれないから、外へ出るときは何か厚手のものを羽織ってくださいね」
「オレは元気だっての、風邪なんかひかねー」
「そういう人ほど、」
「ぽっくり」
ってか、とからかうような笑い声を立てる。「死ぬわけねえだろ、それに寒いのは苦手じゃない」
そもそもエドワードのそとみはこのような気遣いとは無縁ではないのか、と本人は疑問に思っている。実際はのらくらしている態度や触れれば温みを帯びない手足が人の不安を買っているのだと、しかし言いづらくもあって迂遠な忠告となってしまう。諦め気味に、「得意とか、あるんですか?」
とアルフォンスが聞き返すと、にか、と笑われた。「お前はなにがしたいんだ」
と訝る声は、少し耳障りな高さで、心地好かった。ロイがどういった類の感情をこちらへ向けていたのかはわからないが、エドワードは、多分に父親を重ねていたところがあるのだろう。幼い自分を見下ろした瞳が、そっくりだと思った。「兄さん、東部行きの汽車はあっちから出るって。時間があるから、何か食べておく?」
「あー、そうすっか。何がいいだろうな、腹にたまるもんがいいだろ」
「角にホットドッグが売ってたよ、あとは、ちょっと離れてるけど、肉料理のお店があったよね」
「おお、肉!そうしようぜ、行くぞ!」
鞄ひとつぶんの荷物を背中に持ち上げて、歩幅の広いアルフォンスがゆっくりエドワードについてくる。がしゃん、がしゃん、と、かたん、と、硬質な音がふたりにいつも付き纏う。気にとめないそれを、鎧と、あとは鋼が立てているとは、知らない人は思いもしまい。「報告書はちゃんと書いた?前みたいにぱらぱら漫画とか書いたりしてないよね」
「あれは消し忘れただけだって!」
「だったら、最初から別の紙に書けばよかったんじゃない?」
「あ、アルはわかってねーな、落書きってのは書類に書くから楽しいんだよ、大佐なんかが真剣に読まないといけねーもんを、ふざけて扱うとか、最高だろ!」
「わかんないや、ボクには」
「お前はいいんだよ、あのおっさんをからかってやるだけなんだからさ」
「好きだねー、兄さんも」
「すすすすきってなんだよアルフォンスくん、どうしてそういう結論になるんだよ」
「あの人を揶揄するのが、さ」
「・・・べつに、」
「兄さんの考えてることなら、ボクにもわかるんだけどね」
アルフォンス、そうだ、お前なら解ってくれるだろうに。エドワードは一人でしかなく、弟の笑顔を最後に見てからもう何年経たのだったか。マスタング。自分の口が、呟いたかもしれない。泣きそうになるが、涙はこぼれず視野は白く染まる。「・・・あー」
覚めた気がせず、夢かもしれない部屋のなかで声を出す。かすれているのは、十四歳のエドワードが弟を呼んだからか、眠気で声帯が安定しないだけか―――目尻を触っても、指は濡れない。「あーあ、また、寝ちゃって」
「腹出して寝てるわけじゃねーし、いいだろ」
「風邪の話ですか?」
「・・・そーだよ、お前、よく俺に毛布かけて・・・」
微弱にふるえる瞼を思い切り擦ると、「あ、」鈍い声をこぼしてシーツから上半身を起こした。これはこちらでの出来事ではなかった、と気づいた。俯いた顔を少し上げて穏やかな青い目を見る。「なんでもねえ、気にしないでくれ」
なおいつもならアルフォンス相手に口にしてしまう弟との些細な日常をごまかそうとしたのは後ろめたい気がしたからだ。2010-09-28