「どこ、どこにおるん……」
らしくもなく頼りないひとり言をこぼしつつ、額につたった汗を手の平が拭った。どこの路でも窓は壁の高い位置にあって、また今夏は暑いから熱気があるのだった。ごつごつとした壁面に肘をつけ、深呼吸する。耳朶には庭に場所をとる噴水のふきあがる音、ざあざあと流れてはまた巡るのが絶え間無く、触れている。いい気なもんやと瀟洒で、ひとの気を知らない邸に苛立ちながら、また、開けっ放しにされているひとつの部屋に踏み込んだ。「あっ、」
と高音の、耳たぶを撫ぜる声があった。「へ、だれか、おるの、」
今朝から初めて人に会ったようだから、ベルギーは多少覚束ない声かけをして見回した。正面に掛けられた金縁の額、その中にいる髪を頭のてっぺんに巻いた娘の黒々とした瞳と目があうのを反らして、木馬、絵筆、ロイヤルブルーの机、とずらしていった視線を足元に向けると、すこしも動かなかったに違いないのにベルギーが見つけられなかった声の主を発見した。「あ」
ロマーノ、だったか。「なんやの」
ぱちくり、エメラルドグリーンの瞳で瞬きをするとその国はびっくりしたようで、立ったそのまま身体を強張らせ、ふるえる声で逆に問いただしてきた。「ベルギー、だった、か? なんだよ、あ、です、か、スペ、あいつの」
それは、立場のこと、か、あいつことスペインがベルギーにどういう感情を持っているのか、だろうか。ふたつは微妙に違う。先なら、ただ、異国で召使の身分である、ついでそのことが気に入らない、少女のすがたをした国、である。後者の場合だと、且つスペインには彼が下においている多分に漏れず気に入られていない国、と加えられる。きっと深い意味はないだろうからそこまで考える途中で、「子分みたいなもんやな、あいつってスペインやろ、うちはまた違う国なんやで」
そもそも、紹介なら少し前にしたはずだ。スペインは軽々しく、そしてベルギーも浮ついた態度でロマーノをからかった。売り言葉に買い言葉、口づけをこうる子供を遊んだのは気紛れだったのだが、気にしているのかもしれない。やはり自分に冗談は向いていないのだろう。「……別の、それって、フランスとか、オーストリアでもないのか」
回転のあまりよさそうでない頭を働かせた末、と言った冗長さで口を開いた。口調が生意気になった、と思い少し微笑んでしまう。久しく見ない幼さだ。「なんであいつらが出てくるん、違う、まあったく別やからな、一緒にせんといてな」
笑いかけても、ロマーノは笑わない。「なんの絵、描いとったの」
まるでこどもを扱うみたいなのが我ながらおかしいけれど、この小動物のような国が口を開くにはそういう接し方がいいのだと知っていた。ロマーノはぺたんと絵の具があちこちについた衣服と手のひらを床につけ、座った。ベルギーはドレスの裾に気をつけてわきにしゃがむ。金糸で刺繍をした黒の布地は、馬に乗ったそのまま屋敷におとなうものがいくらかいるせいで室内はあちらこちらに土がついており、足元の汚くなった悪い廊下を歩いたためもう洗う必要があったが、きれいな水は貴重品だから、あと一日はせめて格好を変えるべきではなかった。商家というのはえてして吝嗇が身についている。ましてやそれを生業とするものが有力なベルギーという国は、自然と倹約を好んだ。「……」
こどもはくちびるをはたはたと動かして呟いた。「え、え、なに? 聞こえんかった。ごめんなあ、姉ちゃんあんまり耳良くないの」
そういうわけでもなく、ただロマーノの声が微小だっただけだ。小首を傾げてもう一度問うが、機嫌を損ねたに違いない顔をしてロマーノは真っ赤な顔でベルギーを横目に睨んだ。大人が怖いのだろうか、いや、恥ずかしがりやかもしれない。「な、なんでもないんだぞ、コノヤロー!」
振り返りざまに、一言。ばたばたと音を立てて扉の向こうに隠れてしまった。逃げ足は速く、ベルギーが半身をドアから出して左右を見る頃にはその音すらも聞こえなかった。ただ陽光の燦々と当たる、煌びやかなアラベスク文様の天井だけが、視界に入った。「お、きよった、ベルギー。こっちに来ぃ」
いつもなら使っている公用語ではなく、スペイン語で彼は話し出した。ロマーノが男の隣に座っている。机上に馬を模した木製の小さな玩具があり、その一つを男が持っていた。「ロマーノ、ベルギーが来たで」
陽気が満ちた声に裏を張り付かせているのを知っているから、ベルギーは徐に席へつき、はすむかいをチロチロと見る。ロマーノだった。「こ、こんにちは」
国が言う。怯えた雰囲気は少ししかなかった。そのわずかも、ベルギーだけに向けられている。優しく接している様子の、スペインに懐いているのだろう。首筋辺りの金髪にさら、と指通しし、ロマーノへはっきりと目を向けた。「おはようさん。朝から、元気そうやなあ」
ロマーノは隣の男の、シンプルなシャツを掴む。男が玩具を動かし、生き馬のようにぱかぱかと歩ませる。「朝ごはんもう食べてもうたんよ、呼んでもらって申しわけないんやけど、礼は言うとくわ、ありがとなあ」
まくし立て、話し終えるまで口を挟めずにいたナポリか、シチリアかその辺りの集まりの国は最後に問われて、前と同じだんまりのかたちで答えにくそうに口をつぐんだ。するとスペインロマーノの髪へ指を櫛にしてから頭頂に優しく触れて、指の腹でちょんちょん、と全く力を込めないでたたいた。「悪かったな! まだ食ってないだろって思ったんだ、だから、俺がスペインに、呼ばせたんだ」
国は元気づけられたに違いなく、口下手だろうと考えていたベルギーの予想を裏切って強気な声で言い立てた。「一緒に? 初めてやわ、ほないなこと言われたの」
猫のように目を細める。意地悪な気持ちが胸の内にあるのを、聡いベルギーは意識していた。「朝ごはん、食べないと、健康になれないんだぞ。それに、ひとりで食べるより、皆のほうがいいだろ」
「へえ、ほうなん。おりこうやなあ」
「せやせや、ロマーノは賢いやんなあ、親分自慢の子分やでー」
故意にか、脳天気な声で合間に入ったのはロマーノを抱えるように傍にいたスペイン、あのいつも遠くを睨むような顔をする男だ。ぬるい会話から意識を逸らし、ふいに緑の目を向けた高窓から、東の方角に建つ聖堂の屋根が見えた。瞼の殆どを閉じて水が空へ噴出す音を聞いた。小さく草の揺れるのもわかる。「う、っるせえ、お前が自慢することじゃ、ねーだろうが……」
「ええんよー照れんでも」
「うちが呼ばれたのって朝ごはんのためやったな?」
年に差のあるふたりのじゃれあう態が、ベルギーに兄を思い出させた。しばらく顔も見ていない。スペインは顔をくるりとこちらへ振り向かせ、大らかに笑って見せる。「せや、仲良くせんといけんよ、同じ家に住むんやしなぁ」
不覚にも目を瞠ってしまった。そもそも、人ではないといえど女の身になんて笑顔だろう。驚きに上気した頬が、気温よりも熱くなっていく。「おい、ベルギー?」
いぶかしむことのない男の隣で足を揺らしつつ、見た目は城の奥にいる令嬢のように着飾らされているベルギーを気にしていたのは、こどもの幼い仕草だからわかってはいたが、もう決して幼女とは呼ばれない姿の国は、その彼が立てる粒みたいに小さな音のいくつかごと頭から追い出して了った。「やったら、うち、もうええよね?最近、忙しゅうてなぁ、ちいっと抜けてきただけなんや、ロマーノ、には悪いんやけど、また今度な」
後半はロマーノへ顔を向けつつの台詞だった。「なあ、あんた、ロマーノやないの? お祈りするなんて、」
「別に、当たり前だろ、馬鹿かお前」
言われた通りではあったが、では他に彼を止めるにふさわしい文句があったろうか。ロマーノがしたのは、ただ目をつむり、手を組んだだけであったから、言葉が見つからなかったのだ。最初に顔を見たとき思った、話すことがない、という印象は正しかった。離れた土地の、同じように他国からの支配を受ける、その上、相手はまったく、未発達である。ロマーノの引き止めに成功したため腕を離し、背中でてのひらを重ねる。果たしてどちらの意思であったか、なんといった理由もなくふたりは丸い井戸に寄り掛かっていた。古い水の匂いのする、あまり胸に良いとはいえない場所だったが、人間のような故では病まない身体には関係がなく、ただ、教会の壁にもたれるよりは話すのに適したところではあった。「なんか用があるのかよ」
ロマーノはぶらん、と井戸のふちからぬめる底へ腕を下げている。どうにも、だるそうな動きをよくしている。快活で可憐な感じのある弟とはあまり似ていないらしい。しかし顔立ちは丸みを帯びた子供の、それもひときわ愛らしいものだから、ひとりでそうしていればちょっとひねてはいるものの、充分に微笑を誘う姿だった。ベルギーにも可愛い何かを愛でる心はある。スペインがいない今、ロマーノをいとおしむ気持ちが湧くのも否定しかねるところだった。母性に相似する感情の働き。ぽん、と女の子のように白い布を巻いている頭へたなごころをおいた。「っ、さわんな、うっとおしい……」
「嫌や、ないやろ。あんた、ちっこい子はねーちゃんに遊んでもらうの、喜ぶもんや」
蓮っ葉な口に、汚い言葉を封じられたロマーノがしたのは、手元の水気で湿った、かたい石をこぶしでたてに叩くことで、赤くなった顔はどこかさきほど見たひなげしに似ていた。「あんた、元気やな」
「そうでも、ねーぞ、」
「小さいの、気にしてるんか?」
「……女はでかい男が好きだろ、強くて、かっこいい奴」
「ほんなこと、気にしとったん? 誰に教えられたんや、どうでもええ話やな」
「スペインとか、そこら辺の」
「ほんと、しょうもない人たちやな。あんたも信じるんやないよ」
「う、嘘なのか?」
「まあ、上背はあるほうがええかもなあ、スペインも、フランスも大きいし、兄ちゃんも大きいな……女の子にもてようとか、ほないなことのためじゃなくてなぁ、うちらのために、な」
「どういうことだ?」
丸くて愛らしい、小動物的なふたつの目が、ベルギーを見上げる。「国や、うちらは、だから、身体もやけど、頭ン中も、健康でないといけん」
ベルギーは、いつからか話の的が兄の言うようなものへすりかわっていることに気づいていた。「俺には、無理だな」
このまま育てばいつか皮肉げにゆがめられるのかもしれない口許を、ベルギーは薄ら目を開けて見た。「お前、あにき、いるんだろ、仲、いいのか」
「ん?」
どうしたらそう思うのだろう。ヴェネチアーノと呼び分けられる弟とはあまり仲が良くないらしいという噂が頭に浮かんだ。この素直でない子供に言ってやろうと思った。「ふん、好きよ」
息を呑む音が聞こえた。ロマーノは呼吸を繰り返している。「顔色」
とだけ、身体からことばを切り放した。「悪いと思ってたんだぞ、あ、会っただろ、ちょっと前に」
「……ほうかなあ」
瞬く。体調は、やはり良くないのだろうか。ほんの少し自覚はあったが、他人にまで見取られるとは。「わっ」
ロマーノの頬にまで腕を伸ばし、指先で頬の肉を摘んだり、離したりしてみる。人みたいに熱い肌で、柔らかかった。「ありがとなあ、心配してくれて」
この前告げた礼とは性質がたがっていた。気づいただろうか、おそらく理解したらしく、赤くなった顔を何度も上下させた。「仲いいのか」
繰り返しで、独り言のようであったから、数秒何も答えずにいると、居心地悪そうにロマーノは身体を小さく揺らしていた。不恰好な動作だ。「最近はあんまり、話とらん。知っとるやろ、オランダの兄ちゃん、ほとんどうちらと関わろうとせえへん」
「顔見ただけだぞ」
「ほうやろなあ、だいたい、あんたスペインの傍にいるもん、話せへんで」
「俺が引っついてるわけじゃねーぞ、あいつが勝手に来るんだ」
どうだか、と口にはしないで、返す。誰が見ても、ロマーノはあの男に懐いている。生意気な態度を許容されているのは、もちろんその国の魅力もあるだろうが、素直に縋る心を持っているからかもしれない。「あんたは、仲よくないの」
「……たまにしか、会わない」
触れられたくない部分が子供でもあるものか、と認めたのち、ロマーノの性格が幼くとも、見た目どおりの年でもないことを思い出した。落ち込んだ顔をしても、大気の暑さで熱の引ききらない頬を慰めるように、その猫のようになだらかな背中をするりと撫でおろす。「あんたにはうちらがおるやろ」
迷いなく、というよりは他にかけるものがなかったためだったが、言葉は勢いよく唇から流れた。「うあ、」
ロマーノは顔をまっかっかにして、俯いてから井戸を降りた。「ん、ん?なしたの、あんた。ロマーノ?」
続いて地に足を着けた。井戸の濃い影から桶の持ち手のように、二本の不揃いな影が伸びている。小さな子供はそれを見ている風でもなく、葡萄畑へ目を向けていた。「収穫期やなあ、今年はええのんができるかな」
嗅いで匂うのは、背後の濁った水だった。振り返らずにいると、ロマーノは前に踏み出して、また、踏み出し、あっという間に草むらを抜けた。「なしたんー?」
口に指を回して呼びかける。「ううううううるせえっ」
大声が、ちゃんと返ってきた。「吃りすぎやろ」
額にかかっている前髪を掻き上げながら追いつく。ここからなら果実のかぐわしい香りがした。身体を後方へ反らし、深く呼吸する。「お前は、俺の姉ちゃんじゃねーぞ」
「当たり前やろ、うちらに兄妹なんてもん、ほんまはないんや。人とはちゃうもん、でも、居たってええやろ」
悪戯な顔をしてやると、ロマーノがむっとした。だんまりにはならなかった。「姉貴はいらねえぞ」
「ほう? なったってもええのに」
「口煩い奴はもういらねー、だっ、たら、かのじょ、とか」
「ませてるなあ」
「してやんねーこともないぞって思ったけど、やっぱなしだ!」
「どっちやねん……」
ロマーノが知らないこと、がいくつもあった。彼は幼く、まだ国というよりかたまりだった。粘土であり、それは優しい手でこねられて、勝手な形になりだしていた。今まで何でも気ままに扱い、放り出したはずのスペインは、なぜかこの国に暖かい腕を回している。親にとってのこどもや、男が少女を抱くように、体温を求めている。「あんた、ええ、男になるやろな」
2010-09-24