やさしくふれて、

 見知らぬせかい、と呼ぶに相応しいある南の国の屋敷。もとより広いとはいえ人間と違って迷ったりしないとベルギーは自信を持って思っているのだけれど、いかにも今が商いの盛り、という風の金をかけた、入り組んだ廊下に派手な、いくらの金塊と取引したのやらわからないような壷、の装飾は目を狂わせてしまうらしく、曲がっては小部屋に当たり、果ては二本の通路が中央で繋がる玄関のホールにたどりついてしまう、と実際は道がわからなくなっている。

「どこ、どこにおるん……」

 らしくもなく頼りないひとり言をこぼしつつ、額につたった汗を手の平が拭った。どこの路でも窓は壁の高い位置にあって、また今夏は暑いから熱気があるのだった。ごつごつとした壁面に肘をつけ、深呼吸する。耳朶には庭に場所をとる噴水のふきあがる音、ざあざあと流れてはまた巡るのが絶え間無く、触れている。いい気なもんやと瀟洒で、ひとの気を知らない邸に苛立ちながら、また、開けっ放しにされているひとつの部屋に踏み込んだ。
使われていないところなどいくらでもあって、そのどれもが変わらず美しく、真珠の首巻きをした婦人の絵があったり、なんらかの食器が飾られていたりと、計画なしに無駄をするあの男の性分に呆れて埃っぽさに鼻を摘んだりするのだが、やはりここも例に漏れずくさくて、顔をしかめてすぐ、上方にライオンの顔を象ったドアノブを手前にひくと、

「あっ、」

 と高音の、耳たぶを撫ぜる声があった。

「へ、だれか、おるの、」

 今朝から初めて人に会ったようだから、ベルギーは多少覚束ない声かけをして見回した。正面に掛けられた金縁の額、その中にいる髪を頭のてっぺんに巻いた娘の黒々とした瞳と目があうのを反らして、木馬、絵筆、ロイヤルブルーの机、とずらしていった視線を足元に向けると、すこしも動かなかったに違いないのにベルギーが見つけられなかった声の主を発見した。

「あ」

 ロマーノ、だったか。
 こどもの姿をした国は、ここで絵を描いていたらしかった。高級なカンバスを無駄にしないように隅のほうに線を引いて色をつけただけのそれが、絵画といわないのはわかるけれどこの国にしたら真剣なのは、ちいさな手の平に少しずつ色を試したあとがあるので知った。
 これは、カプリ島やろか。
 そう思ったたよりは画布に白亜と木々の緑、迫るような空の差が強く塗り込められていたからだ。小麦色に焼けた肌が思い起こさせるかの島の照った陽は、筆を握る国のものであった。
 ロマーノはベルギーを呆然と見て、そろそろと動き、低い背でカンバスを隠そうとしている。

「なんやの」

 ぱちくり、エメラルドグリーンの瞳で瞬きをするとその国はびっくりしたようで、立ったそのまま身体を強張らせ、ふるえる声で逆に問いただしてきた。

「ベルギー、だった、か? なんだよ、あ、です、か、スペ、あいつの」

 それは、立場のこと、か、あいつことスペインがベルギーにどういう感情を持っているのか、だろうか。ふたつは微妙に違う。先なら、ただ、異国で召使の身分である、ついでそのことが気に入らない、少女のすがたをした国、である。後者の場合だと、且つスペインには彼が下においている多分に漏れず気に入られていない国、と加えられる。きっと深い意味はないだろうからそこまで考える途中で、

「子分みたいなもんやな、あいつってスペインやろ、うちはまた違う国なんやで」

 そもそも、紹介なら少し前にしたはずだ。スペインは軽々しく、そしてベルギーも浮ついた態度でロマーノをからかった。売り言葉に買い言葉、口づけをこうる子供を遊んだのは気紛れだったのだが、気にしているのかもしれない。やはり自分に冗談は向いていないのだろう。

「……別の、それって、フランスとか、オーストリアでもないのか」

 回転のあまりよさそうでない頭を働かせた末、と言った冗長さで口を開いた。口調が生意気になった、と思い少し微笑んでしまう。久しく見ない幼さだ。

「なんであいつらが出てくるん、違う、まあったく別やからな、一緒にせんといてな」

 笑いかけても、ロマーノは笑わない。
 俯いている。
 進展のない沈黙を破ってまで真面目に話すのが煩わしくなり、ベルギーは関係のないことを、相手のカンバスを見遣りながら問した。

「なんの絵、描いとったの」

 まるでこどもを扱うみたいなのが我ながらおかしいけれど、この小動物のような国が口を開くにはそういう接し方がいいのだと知っていた。ロマーノはぺたんと絵の具があちこちについた衣服と手のひらを床につけ、座った。ベルギーはドレスの裾に気をつけてわきにしゃがむ。金糸で刺繍をした黒の布地は、馬に乗ったそのまま屋敷におとなうものがいくらかいるせいで室内はあちらこちらに土がついており、足元の汚くなった悪い廊下を歩いたためもう洗う必要があったが、きれいな水は貴重品だから、あと一日はせめて格好を変えるべきではなかった。商家というのはえてして吝嗇が身についている。ましてやそれを生業とするものが有力なベルギーという国は、自然と倹約を好んだ。

「……」

 こどもはくちびるをはたはたと動かして呟いた。

「え、え、なに? 聞こえんかった。ごめんなあ、姉ちゃんあんまり耳良くないの」

 そういうわけでもなく、ただロマーノの声が微小だっただけだ。小首を傾げてもう一度問うが、機嫌を損ねたに違いない顔をしてロマーノは真っ赤な顔でベルギーを横目に睨んだ。大人が怖いのだろうか、いや、恥ずかしがりやかもしれない。
 いちど座ってしまったので、今度は待つ気になり、じっとしていると、痺れを切らしたように子供はドアへ駆けた。

「な、なんでもないんだぞ、コノヤロー!」

 振り返りざまに、一言。ばたばたと音を立てて扉の向こうに隠れてしまった。逃げ足は速く、ベルギーが半身をドアから出して左右を見る頃にはその音すらも聞こえなかった。ただ陽光の燦々と当たる、煌びやかなアラベスク文様の天井だけが、視界に入った。
 目線を下ろして前屈みになり、揃えて伸びている両膝に手を突く。
 衣服へ仕舞いこんだ紙がかさり、と布地に擦れた。
 また次の部屋を探さなければならない。上司からの手紙を、頼まれている。宛先に書かれた名は今ベルギーがいるこの国、スペインは、まだ見つからない。




×




 まだ民衆がこの国に慣れていないというのが顕れているのかもしれない。今日も城の中で迷った末にそう結論づけて、ベルギーは五指でノブを握り締めた。軽く押すと静寂に油の足りていない、悲鳴じみた声を上げて、広い屋敷中で一番大きな部屋への道が開いた。赤い絨毯に足が沈む。奥にはテーブルセットがあり、今は主人の、異国がその椅子に座っていた。くちびるを噛む。

「お、きよった、ベルギー。こっちに来ぃ」

 いつもなら使っている公用語ではなく、スペイン語で彼は話し出した。ロマーノが男の隣に座っている。机上に馬を模した木製の小さな玩具があり、その一つを男が持っていた。

「ロマーノ、ベルギーが来たで」

 陽気が満ちた声に裏を張り付かせているのを知っているから、ベルギーは徐に席へつき、はすむかいをチロチロと見る。ロマーノだった。
 あの長靴型の半島の北側は、ヴェネチアーノ。そして栄えたその場所のあまりもののように扱われる南を、ロマーノと呼ぶのを兄から聞いたことがあった。

「こ、こんにちは」

 国が言う。怯えた雰囲気は少ししかなかった。そのわずかも、ベルギーだけに向けられている。優しく接している様子の、スペインに懐いているのだろう。首筋辺りの金髪にさら、と指通しし、ロマーノへはっきりと目を向けた。

「おはようさん。朝から、元気そうやなあ」

 ロマーノは隣の男の、シンプルなシャツを掴む。男が玩具を動かし、生き馬のようにぱかぱかと歩ませる。

「朝ごはんもう食べてもうたんよ、呼んでもらって申しわけないんやけど、礼は言うとくわ、ありがとなあ」

 まくし立て、話し終えるまで口を挟めずにいたナポリか、シチリアかその辺りの集まりの国は最後に問われて、前と同じだんまりのかたちで答えにくそうに口をつぐんだ。するとスペインロマーノの髪へ指を櫛にしてから頭頂に優しく触れて、指の腹でちょんちょん、と全く力を込めないでたたいた。
 言葉があふれる。

「悪かったな! まだ食ってないだろって思ったんだ、だから、俺がスペインに、呼ばせたんだ」

 国は元気づけられたに違いなく、口下手だろうと考えていたベルギーの予想を裏切って強気な声で言い立てた。

「一緒に? 初めてやわ、ほないなこと言われたの」

 猫のように目を細める。意地悪な気持ちが胸の内にあるのを、聡いベルギーは意識していた。

「朝ごはん、食べないと、健康になれないんだぞ。それに、ひとりで食べるより、皆のほうがいいだろ」

「へえ、ほうなん。おりこうやなあ」

「せやせや、ロマーノは賢いやんなあ、親分自慢の子分やでー」

 故意にか、脳天気な声で合間に入ったのはロマーノを抱えるように傍にいたスペイン、あのいつも遠くを睨むような顔をする男だ。ぬるい会話から意識を逸らし、ふいに緑の目を向けた高窓から、東の方角に建つ聖堂の屋根が見えた。瞼の殆どを閉じて水が空へ噴出す音を聞いた。小さく草の揺れるのもわかる。

「う、っるせえ、お前が自慢することじゃ、ねーだろうが……」

「ええんよー照れんでも」

「うちが呼ばれたのって朝ごはんのためやったな?」

 年に差のあるふたりのじゃれあう態が、ベルギーに兄を思い出させた。しばらく顔も見ていない。スペインは顔をくるりとこちらへ振り向かせ、大らかに笑って見せる。

「せや、仲良くせんといけんよ、同じ家に住むんやしなぁ」

 不覚にも目を瞠ってしまった。そもそも、人ではないといえど女の身になんて笑顔だろう。驚きに上気した頬が、気温よりも熱くなっていく。

「おい、ベルギー?」

 いぶかしむことのない男の隣で足を揺らしつつ、見た目は城の奥にいる令嬢のように着飾らされているベルギーを気にしていたのは、こどもの幼い仕草だからわかってはいたが、もう決して幼女とは呼ばれない姿の国は、その彼が立てる粒みたいに小さな音のいくつかごと頭から追い出して了った。

「やったら、うち、もうええよね?最近、忙しゅうてなぁ、ちいっと抜けてきただけなんや、ロマーノ、には悪いんやけど、また今度な」

 後半はロマーノへ顔を向けつつの台詞だった。
 未だ不思議そうな目線を逸らさないでいる小さな国の、言いたそうにしながらも口はむっと尖らせており、血色のよい唇、それを待っても全く開く様子はないのだった。
 スペインは気を悪くした風もなく、そもそもベルギーを見ずに、わかったと頷いた。声には明るさがあったが、ベルギーには親しみの響きを聞き取れはしなかった。気のせいだろうか、最近、健康なのに嫌に胸が痛む。
 スペインも、お兄ちゃん、も。なにが、なにが気に入らんの。その内心で納まった問いは、たぶんおのれへの苛立ちが占めているのだと思う。いつの間にか、たぶん音もさせず侍っていた給仕は、テーブルにカップを並べようとしているところだったが、主人格と先客、の順で、黄金と赤で花と馬の柄を描いた陶器を置いたとき、ベルギーは会釈して席を立った。申し訳なさそうに笑い、別の女に扉を開けてもらいながら、真直ぐ立ったが、背後で蝶番の軋む音を捉えたとき、すぐ外の壁に寄りかかった。廊下にはやはり、人はおらず、耳を支配するのはなぜか庭の物音ではなく、厚い壁面の向こうの、声。得意げに今日あったことを話すスペインと、それにつまらなそうに作った声で問い返すロマーノの声を、正しく聞き取る。顎を上向きにし、息を吸った。吐き出すのが嫌になるような重苦しいものが、その空気には含まれていた。




×




 この家の中には兄もいる筈なのに滅多に会わず、たぶんあちらは避けているのだろう、懐柔されまいと身をかたくするのは同じでも、度合いが幾分か見た目には兄のほうが強い。もちろん、ベルギーも同じ気持ちだ。いつまでもここにいてはいけない、ここより更に南下する国のすがたを知っていればこそ、ゆるやかに待つのはいけないのだ。兄はだから、機会を伺っているのだと思う。今ではない先を、与えられた場所で足踏みしながら探っている。ベルギーはそれを外で行っているだけだ。ときおり痛む足が、離れる必然性と、手探りする時間を感じている。民が悲しんでいる、それは、ベルギーが傷ついている、ということ。
 誰も話す人は、だからいなかった。他国の人間と容易に相容れるわけにはいかない。悲しいことかもしれないが、そもそも、国は無言でいたとしても問題はない。地、なのだから。
 今日も早朝より、暑い。牛やら人やらが踏んだせいで、どこの道も夏草の匂いがする。ベルギーは視界のはしっこでジャッカルの駆け抜けるのを捉えた。パリなどの、狭く整備された都市では見られない、牧歌的な風景である。そのフランスだとて都心の他は空と畑しかないような村々でできているし、商いを中心とするベルギーでも、田舎はどこも同じ景色であったが、やはり大半の異国と変わらずいつも手入れされている小さな城を住み処にしていたから、見慣れないものだ。もちろん、羨む感情は湧き出てくるはずがない。ときおり見るから、いいのだろう。金を持っている者が療養のため、郊外に別な家を造るのは、そのためである。溢れる木々が欲しくなるのだろう。目に痛い鮮やかさをもってベルギーの歩む草むらを彩る、真っ赤なアマポーラをぽつぽつと追いながら、そんなことを考える。
 手伝いやら、料理人やら、上司やら。いないはずはないのに、無人のように静まり返っている邸から離れ、また違う庭のひとかどへ普請中の教会に向かっていた。
 樫の扉がうっすらと、燭台の、独特に涙を誘う香の薫りが漂ってきていて、誘われる蜂のようにそこへ向かうとつくられた聖母が立つ元に小さな少年が居た。背中だけが見えている、白衣の子は壁画の天使の風情があり、しかし見知ったものであるのは意識していた。赤茶けた髪の、すこし癖がついた部分、それが彼のおもしろい個性となっている。
 ロマーノ、と声をかけなかったのは祈りが真摯であったからではなかった。ベルギーは会話の必要性を感じなかった、今は、ただのひとりでいたかった。手を組んで瞼をとじながら、赤く光の透ける膜の先に少年を認めていた。かみさま。
 ロマーノが気づいていたかどうか。瞼を開いたあとは、長い間ひざまずいた彼に色とりどりの光を落とし、飾ったステンドグラスと小さな身体との間に目を向けていた。そしてこつこつとタイルを踏みながら路を帰り、聖堂を出たロマーノの首ねっこをシャツ越しに掴んで引き止めた。

「なあ、あんた、ロマーノやないの? お祈りするなんて、」

「別に、当たり前だろ、馬鹿かお前」

 言われた通りではあったが、では他に彼を止めるにふさわしい文句があったろうか。ロマーノがしたのは、ただ目をつむり、手を組んだだけであったから、言葉が見つからなかったのだ。最初に顔を見たとき思った、話すことがない、という印象は正しかった。離れた土地の、同じように他国からの支配を受ける、その上、相手はまったく、未発達である。ロマーノの引き止めに成功したため腕を離し、背中でてのひらを重ねる。果たしてどちらの意思であったか、なんといった理由もなくふたりは丸い井戸に寄り掛かっていた。古い水の匂いのする、あまり胸に良いとはいえない場所だったが、人間のような故では病まない身体には関係がなく、ただ、教会の壁にもたれるよりは話すのに適したところではあった。

「なんか用があるのかよ」

 ロマーノはぶらん、と井戸のふちからぬめる底へ腕を下げている。どうにも、だるそうな動きをよくしている。快活で可憐な感じのある弟とはあまり似ていないらしい。しかし顔立ちは丸みを帯びた子供の、それもひときわ愛らしいものだから、ひとりでそうしていればちょっとひねてはいるものの、充分に微笑を誘う姿だった。ベルギーにも可愛い何かを愛でる心はある。スペインがいない今、ロマーノをいとおしむ気持ちが湧くのも否定しかねるところだった。母性に相似する感情の働き。ぽん、と女の子のように白い布を巻いている頭へたなごころをおいた。

「っ、さわんな、うっとおしい……」

「嫌や、ないやろ。あんた、ちっこい子はねーちゃんに遊んでもらうの、喜ぶもんや」

 蓮っ葉な口に、汚い言葉を封じられたロマーノがしたのは、手元の水気で湿った、かたい石をこぶしでたてに叩くことで、赤くなった顔はどこかさきほど見たひなげしに似ていた。

「あんた、元気やな」

「そうでも、ねーぞ、」

「小さいの、気にしてるんか?」

「……女はでかい男が好きだろ、強くて、かっこいい奴」

「ほんなこと、気にしとったん? 誰に教えられたんや、どうでもええ話やな」

「スペインとか、そこら辺の」

「ほんと、しょうもない人たちやな。あんたも信じるんやないよ」

「う、嘘なのか?」

「まあ、上背はあるほうがええかもなあ、スペインも、フランスも大きいし、兄ちゃんも大きいな……女の子にもてようとか、ほないなことのためじゃなくてなぁ、うちらのために、な」

「どういうことだ?」

 丸くて愛らしい、小動物的なふたつの目が、ベルギーを見上げる。

「国や、うちらは、だから、身体もやけど、頭ン中も、健康でないといけん」

 ベルギーは、いつからか話の的が兄の言うようなものへすりかわっていることに気づいていた。
 ロマーノには難しかったのであろうか、あらんや、理解する気がない、とは違うだろうが、ほお杖をついている様には誠実さの影を遠のかせている。目を瞑る。

「俺には、無理だな」

 このまま育てばいつか皮肉げにゆがめられるのかもしれない口許を、ベルギーは薄ら目を開けて見た。
 正直に認めるならば、兄を思い出していた。親しげに話しかけようと笑い返さないオランダの無味の表情。その皮膚の下に埋まるのは、不器用な感情だと知っているのは、もしかしたらベルギーだけかもしれない。
 そのかんばせを、おそらくじっとロマーノは見つめていた。

「お前、あにき、いるんだろ、仲、いいのか」

「ん?」

 どうしたらそう思うのだろう。ヴェネチアーノと呼び分けられる弟とはあまり仲が良くないらしいという噂が頭に浮かんだ。この素直でない子供に言ってやろうと思った。

「ふん、好きよ」

 息を呑む音が聞こえた。ロマーノは呼吸を繰り返している。
 それから不思議なほど機嫌の悪い声で、

「顔色」

 とだけ、身体からことばを切り放した。
 頬に両の手のひらを添えた。ほっこりと温い。からり乾いた空気の匂いが鼻孔に入り込む。

「悪いと思ってたんだぞ、あ、会っただろ、ちょっと前に」

「……ほうかなあ」

 瞬く。体調は、やはり良くないのだろうか。ほんの少し自覚はあったが、他人にまで見取られるとは。

「わっ」

 ロマーノの頬にまで腕を伸ばし、指先で頬の肉を摘んだり、離したりしてみる。人みたいに熱い肌で、柔らかかった。

「ありがとなあ、心配してくれて」

 この前告げた礼とは性質がたがっていた。気づいただろうか、おそらく理解したらしく、赤くなった顔を何度も上下させた。
 兄と話をしたかった。難しいことではなくて、面白いこととか、この国に来て見た新しい物のこととかを、兄妹らしい振る舞いで。ちょうどロマーノとスペインのように。
 それが叶ったような気がした。錯覚でしかないがベルギーが兄となり、ロマーノが妹の代わりとなって交わす会話だ。

「仲いいのか」

 繰り返しで、独り言のようであったから、数秒何も答えずにいると、居心地悪そうにロマーノは身体を小さく揺らしていた。不恰好な動作だ。

「最近はあんまり、話とらん。知っとるやろ、オランダの兄ちゃん、ほとんどうちらと関わろうとせえへん」

「顔見ただけだぞ」

「ほうやろなあ、だいたい、あんたスペインの傍にいるもん、話せへんで」

「俺が引っついてるわけじゃねーぞ、あいつが勝手に来るんだ」

 どうだか、と口にはしないで、返す。誰が見ても、ロマーノはあの男に懐いている。生意気な態度を許容されているのは、もちろんその国の魅力もあるだろうが、素直に縋る心を持っているからかもしれない。

「あんたは、仲よくないの」

「……たまにしか、会わない」

 触れられたくない部分が子供でもあるものか、と認めたのち、ロマーノの性格が幼くとも、見た目どおりの年でもないことを思い出した。落ち込んだ顔をしても、大気の暑さで熱の引ききらない頬を慰めるように、その猫のようになだらかな背中をするりと撫でおろす。

「あんたにはうちらがおるやろ」

 迷いなく、というよりは他にかけるものがなかったためだったが、言葉は勢いよく唇から流れた。

「うあ、」

 ロマーノは顔をまっかっかにして、俯いてから井戸を降りた。
 ぽすん、
 軽い音をさせて黄緑の草が受け止める。

「ん、ん?なしたの、あんた。ロマーノ?」

 続いて地に足を着けた。井戸の濃い影から桶の持ち手のように、二本の不揃いな影が伸びている。小さな子供はそれを見ている風でもなく、葡萄畑へ目を向けていた。

「収穫期やなあ、今年はええのんができるかな」

 嗅いで匂うのは、背後の濁った水だった。振り返らずにいると、ロマーノは前に踏み出して、また、踏み出し、あっという間に草むらを抜けた。
ロマーノは赤く焼けた土に両足で立った。

「なしたんー?」

 口に指を回して呼びかける。

「ううううううるせえっ」

 大声が、ちゃんと返ってきた。

「吃りすぎやろ」

 額にかかっている前髪を掻き上げながら追いつく。ここからなら果実のかぐわしい香りがした。身体を後方へ反らし、深く呼吸する。

「お前は、俺の姉ちゃんじゃねーぞ」

「当たり前やろ、うちらに兄妹なんてもん、ほんまはないんや。人とはちゃうもん、でも、居たってええやろ」

 悪戯な顔をしてやると、ロマーノがむっとした。だんまりにはならなかった。

「姉貴はいらねえぞ」

「ほう? なったってもええのに」

「口煩い奴はもういらねー、だっ、たら、かのじょ、とか」

「ませてるなあ」

「してやんねーこともないぞって思ったけど、やっぱなしだ!」

「どっちやねん……」

 ロマーノが知らないこと、がいくつもあった。彼は幼く、まだ国というよりかたまりだった。粘土であり、それは優しい手でこねられて、勝手な形になりだしていた。今まで何でも気ままに扱い、放り出したはずのスペインは、なぜかこの国に暖かい腕を回している。親にとってのこどもや、男が少女を抱くように、体温を求めている。
 必要はないのに。
 意地っ張りのようにきゅっと口を結んでから、大きく開いた。
 絆されている、というのはこういう感情の話なのかもしれない。ベルギーは作らない笑顔をロマーノへ降らせた。

「あんた、ええ、男になるやろな」

2010-09-24