やさしくふれて、




several hundred years later







 蝋の燻るにおいのする場所。何一つ昔から変わらない空気を閉じ込めている。ベルギーは、うばらの冠をした殉教者のもとへ進み、そばにある箱型のオルガンを開けた。規則正しく並んだ黒と白へ指を添える。このまま力を込めれば、静けさに音を刻めるはずだ。深く息を吸い、吐いてから、ミ、ド、と叩く。坊ちゃん、のようにはいかないけれど右手のみで音を奏でていっただけでそれはなんとか聞きとれるものになった。目を瞑りながら弾いていると、きい、と扉が開いた。指を止めずに見ると、ぬるま湯の中にいる感じのする堂に足を踏み入れたのはロマーノであった。逆の光で顔が黒く塗りつぶされたその青年は次第に近づいて、オルガンに一番近い長いすへ腰かけて足を組んだ。

「へったくそ、ベルギー、お前、賛美歌もまともに弾けねーのかよ」

 不遜な態度でロマーノは言い、高い天井を見上げた。三角になった屋根の間辺りを見ている。そこにはひとと十字架が組になってかけられている。別に弾けないわけじゃぁ、ないんやけど。指摘されても大人しく指を動かし続けていると、ロマーノが口を開き、

「なんで第六曲なんだよ」

「クリスマスが、近いから、やろか」

「『イエスこそわが喜び』、要するに、適当なんだろ、ベルギー、じゃねえと、お前がじゃがいも野郎の曲なんか」

「ふん、あんたにほないなこと言われる筋合いないわ」

「うっせえ」

「どっちが、や!」

 ド、と頭に覚えたいちばん簡易な、この曲についての楽譜を終わらせ、オルガンの椅子にぽす、と座った。神父の老年を労う気持ちからか、座面の柔らかな黒革に指の腹を這わせつつ、ベルギーは青年を観察した。
 なんでここに来たんやろか、とぼんやり輝く燭台の向こうにこげ茶の髪を見る。ドゥエボットーニにストレートパンツ、の姿は仕事帰りにも見えるが、ロマーノのことだからさぼり、の延長かもしれない。南イタリア散歩のついで、ドイツから逃げ出してきた。そういうことも存分にありえたから、信心のゆえ、とは考えがたい。また今は昼時だ。まさかとは思うが、ここでシエスタするつもりだろうか。ちろり、ちろりと見つからないように見ているベルギーに気づくとロマーノは不機嫌そうにそっぽを向いた。いくさの得手な国ではどちらもないから、万事つめが甘いのである。ロマーノは、敏感さんやけど。間近にあった蝋燭の灯芯から垂れたままの半透明にかたまった、それを指でかりかりと掻くと垢のように爪と肉の合間へ入り込む。ジャケットのポケットへ忍ばせてから青年へ笑顔を向けた。
 かたまりを弾いてロマーノの額に上手く当てた。跳ね返って床へ落ちかけたのをはっしと蝋を掴んで、こちらを睨んでくる。

「ゴミ投げんじゃねー、あほか」

「いや、あんたなら拾うてくれんやろなって、思うたん。意外と運動神経ええんやね」

「変な女」

 昔はそのような評価、ではなかった。優しいお姉さん、くらいには思っていただろうに、いつの間にか落ちぶれたものだ。悪いのは、ベルギーの馴れ馴れしい言動と変わらない彼の幼稚さ、のどちらかか、または両方、だろう。

「何しにきたんだ、ベルギー」

「会議があったんや、だから、寄っただけ。ロマーノに会いにきたんとちゃうよ」

「そうかよ、可愛くねえ言い草だな」

「ガキみたいなあんたにほないに褒められても嬉しくないしかまへんわ」

「ほんっと、可愛くねーな……」

「ほうですか、で、あんたはどないしたの」

「美術館行ってきた」

「ほな、まだ絵ぇ描いとるんやね」

「そうは言ってねぇだろ、描いてるけどよ、趣味だし、敵わねーしな」

 誰に、とは言わないが、弟に違いない。ロマーノは劣等感が強い。それなくしては彼ではないと言えてしまいそうなくらい、唇に嫉妬がまとわりつく。子供みたいで可愛らしいと、いつの間にか思わせてしまうところもある。

「あんた、ちっちゃい頃から画布と睨めっこしとった――憶えとる? うちとほとんど話してなかったとき、夏やったな、埃っぽい部屋ン中で、確か、緑色の木と、空か何かが描いてあったなあ」

「なんだそれ」

「憶えとらんかなぁ、ずっと昔やもんねえ、あ、髪の毛アップにした、黒い目の女の子の絵が、かかっとったかな」

 追憶して、高い天井で視界をいっぱいにした。暑い風は今でもすぐによみがってくる。あの日、任された手紙を渡すために鬱屈した気分で歩き回り、結局夕方まで見つからず、庭に出ようとした広い玄関ホールで、畑仕事から帰ってきたスペインに鉢合わせした。

「あれは、」

 ロマーノの声で、教会の春先の匂いに気づいた。
 ポンペイだった、と。ロマーノは告白した。
 今から少しだけ昔に見つかった遺跡であったと。ベルギーの知らなかった場所だったのだ。しかし無意識に、ロマーノだけがそれを見ていた。古い過去に、頭が覚えていたのだろう。

「ほうなんや……」

 自分より幼い考え方しか持っていないように見えていたロマーノは、ベルギーよりもはるかに昔からある。ただ、国として定まらない性質をとらされていたから、こどもじみていた。今こちらを覗き込んでいる、年輪を帯びた潅木のような瞳の色が、急に大人びて見え、浅はかだと思い直した。ロマーノは、ロマーノだ。なぜだか国が得た自我は、何百年経とうと、変化する筈もない。この今でも幼くて、少々勝手な、頼ってくれないようで甘えたがりの男が、ロマーノだ。
 ベルギーの心はとて変わらないけれど、たくさんの人々がかみさん、と祈ったのは今は昔、その居場所を信ずる人々の減りつつある国にあの、暖かな大気は遠退いた。人が作る明かりで満たされた夜気を肌で感じ、目を閉じると頬を髪が撫でる。
 しかしうちらは、薄れることのない昔のはなしをする。
 何度も、何度も繰り言をして生きながらえる。

 さびしい、と。思ってしまった。女だから弱いのか、それとも自分が脆弱なのか。
 泣きそうになった。顔を覆った手を、日焼けした大人の腕が掴んだ。

 すぐそばにあるロマーノの家に向かった。

「トマト、食うかよ」

「ちいとは気ぃのきいた料理とか、ないのん?あんたもそればっかやねぇ、美味しいけど」

「別に、作ってやってもいいけどよ、今なら、あー……マルゲリータとか、簡単なやつ、ジェノベーゼなんかも、できる、材料が、あっから」

 ちろちろと、ロマーノはベルギーを見ながらも冷蔵庫の中身に目をはしらせていて、まるで料理人のような手つきでものを揃えていった。

「トマトでもええよ、大変やろ。もう……ちゃんと食べてたら、遅くなるし」

 レモネードの匂いがするソファが客間に置かれていて、ベルギーはその布地に身を沈ませる。

「幾つのガキだよ、帰れないことないんだから、アホか」

「うち、煩い? したら黙っとるよ、まだ帰んないけど。ロマーノの手料理食べたら戻る。で、スペインに自慢してくるわ」

「はぁ? 俺の飯食ったからって何、えばるんだよ」

「やってー、あんた、男にパスタ振る舞ったりせぇへんやろ」

「……基本はな」

「あ、作るん?」

「あいつ、煩いんだぞ、遊びに来たとかいって、腹減ってるくせに、一緒に食うからって空腹で来るんだ、あのアホ」

 一緒にパスタでも食べながら、仕方話でもするに違いない。様子が目に浮かぶようで、つい微笑が声にもれた。

「仲ええんやなあ」

「そうでもねーよ」

 意に介しない風でロマーノは苦笑した。テーブルにクロスを広げ、グラスを二本置く。
 かち、かち、と金属の馴れ合う音が耳に入ってくる。

「ずいぶんな、格好じゃねーか」

 口に人参のグラッセを運びながらロマーノが話す。
 遠出という感覚でもなかったので、長めのスカートにブラウス、カーディガンだった。地味な色合いのそれらは感性の鋭いロマーノに及第点を貰えなかったらしい。

「うちは、派手なのも、綺麗なのも、特別好いたり、してへんよー」

「昔は、着てなかったか?」

「あれはなぁー……周りがな、らしい格好せな、言うて着せられとっただけやで」

「ベルギーには、アリスブルーのドレスが似合うよ」

「……ほうかな?」

 ええ男になったなあ、と言いそうになり、それではあまりにも軽々しく、また年を経た女のように思って、言葉を別の音にした。

「なんや、照れるわ」

 ロマーノは驚いたような顔をした。それから、苦いものを口にしたような表情に変わった。ちょうどブロッコリーを食べたところだったから、いつのまにやら嫌いなものでも変わっていたのかと思ったが、そうではなかったらしい。

「俺に褒められても嬉しくねえって言わなかったか」

「女の子なんやで、うちだって。あんた相手だって、少しは嬉しいなぁ、思うに決まっとるやろ」

「そういうもんか」

「ほうです!」

「もっと、言ってやってもいいんだぞ」

「ほれはええわ、ほいほい言われても、仕様もないしなあ」

「う、嘘じゃねーぞ」

 理由やよっぽどの切っ掛けがなければ口にすることのないロマーノのつくりあげる味は、舌に沁みた。黙々と、パスタをくるり、フォークに巻きこんでは咀嚼しているベルギーに、

「聞いてんのか、ベルギー」

 叱るような声ではなかった。

「聞いとるよぉ」

 青年の喉仏を目の当たりにしながら、ベルギーは少し、笑った。

「もう子供じゃないんやなあ、お兄ちゃんと離れて、ロマーノいなくなって、もううちら、別々に暮らしとるし、他人っちゅうか、他国やなぁ」

 聞かせる気はないはずだったのに、こぼれてしまう口を見ながら、ロマーノは何も言わずにいた。
 向かい合ったソファのあるリビングに居座った。二人がけのソファを占めるベルギーの真向かいで、ロマーノは雑誌を読んでいた。真剣そうに見える瞳が、実はそこの印字に興味を惹かれていないことはわかってしまう。
 何の意味も成さないようなゴシップ雑誌だ。ごてごてしたフォントと艶やかな色の装飾。意味を成さないものなど幾つもあった。

「なぁ、」

 なんと言おうとしたのだろう。きっとくだらない愚痴めいた音だったから忘れてしまった。ロマーノは真っすぐベルギーを見据えていて、その口許が三日月形に曲がった。

「ずっと、いるだろ」

 ここに。最後は照れたのか、感極まったように語尾をふるわせながら唇を動かした。赤くなった顔は仏頂面だ。
 つくり笑顔は、難しい。ベルギーは知っていたから、それを馬鹿にする気にはならず、むしろ長い睫を瞬いて、うんうん、と頷いた。
 深くソファの布地に顔を押し付ける。
 頭に五指が置かれて、撫でられる、と目を瞑ったが、その指は髪を梳くだけだった。温かく、安心する指だ。
 金の髪に顔を埋めた。頬の辺りがくすぐったかった。人みたいに。

2010-09-24